蜃、震撼、新幹線
断続的な振動に揺られながら、車両接続部の一階まで
「本当に連れてきてよかったの?」
「ええ、ふたりにも協力してもらいます」
ドアの窓に近づくと乱雑に切り離された車両がひとりでに遠ざかって行くのが見えた。
「下にいたのかよ」
擦り切れた靴底を踏み鳴らす音が鳴り、ドスを担いだ
「これで向こうの車両が三号車だ。いい案は見つかったか?」
「ああ、猿夢の正体は蜃だ。ここで決め打つ」
鬼島は腕を組んだ。
「蜃はハマグリ型の妖怪。おそらく二階建てのこの新幹線を二枚貝に見立ててる。貝の内臓は下半分に貼り付いてる。一階部分に本体がいるはずだ」
浅緋が「悪くねえ見立てだ」と笑う。
鬼島に肩を揺さぶられ、氷下魚が顔を上げる。
「俺たちが移動したら全力で車内を氷漬けにしろ。猿の足止めもできて蜃も弱る。手加減はいらない」
「いいんですか……」
「先輩、凍死する前に決めましょう」
「現場指揮官は私なんだけどな」
紫苑は肩を竦めた。
「いいよ、芥田くんはどうするの」
「猿を追い払ってもらいます。やれるか?」
「命令するな。やれるに決まってるだろ」
芥田の目は毛細血管が赤い枝葉のように広がり充血していた。
「浅緋、お前は屋根まで上がって車両を叩きわれ」
「その心は?」
「殻を引っぺがさなきゃ貝は食えねえだろ」
ヒダルガミが獰猛な笑みを返した。
鬼島は深呼吸をして紫苑を見た。
「先輩、俺が預けた針のこと覚えますか」
「忘れちゃったな」
眉間に皺を寄せる鬼島の肩に紫苑の細い手が置かれた。
「覚えてても使わせないよ」
信号機のような赤が明滅する。
鬼島と紫苑は同時に扉に手をかけた。
「行くよ」
ドアが開け放たれ、生温かい風とともに暗い声が頭上に降る。
「次は挽肉……挽肉です……終点まで皆様お逃げにならないよう……」
無人の車内で影が蠢き、車掌服の猿たちが通路に現れた。
「浅緋!」
浅緋が銀の階段を滑るように駆け上がり、鋼鉄の天井を貫く破裂音が鳴る。
鬼島と紫苑が車内に雪崩れ込んだ。
「先輩、とにかく車両にダメージを与えましょう」
「わかってる」
地を蹴って跳躍しようとした猿たちが足を取られて悲鳴をあげる。絨毯の毛が霜のように凍りつき、床全体が鏡面のような氷に覆われていた。
扉に縋りついた氷下魚の元から冷気が押し寄せる。
猿たちの悲鳴が威嚇の鳴き声に変わった。車掌服の下からピザカッターに似た円形の刃物が現れ、駆動を音立てて回転する。
線路が急カーブに入り、重力の波で車内が軋んだ。
それを皮切りに鬼島が発砲した。
一匹の猿の胸を貫いた銃弾が窓を破り、ガラス片が散らばる。
「後鬼!」
紫苑が指を組み、通路の中央に青い鬼が現れた。
鬼の懐に潜り込んだ猿が刃を振り抜くより早く青い腕が横面を薙ぎ払った。天井に叩きつけられた猿が落下する前に、次の猿の腹に掌が叩き込まれる。
床で跳ねた猿の頭を二発の弾丸が砕いた。
血と脳漿が飛び散り、刷毛で引いたような赤と灰がシートを染める。
染み込んだ猿の体液が陽炎のように立ち昇った。
鬼島の脳に釘を打たれたような鋭い痛みが走る。膝から崩れ落ちた鬼島の頰に霜が噛みついた。
「店長!」
氷下魚の叫び声が遠く聞こえる。かじかむ指で絨毯を握りしめる鬼島の視界に、隣に倒れる紫苑の影が落ちた。
影がワインを零したような葡萄色に変わり、温かな液体となって鬼島の手を濡らした。
視界の隅に転がる腕が白い女のものから痩せて骨ばった少年のものに変わる。
またこれか。
劈くような耳鳴りが鳴り響いた。
血溜まりの中に少年が倒れている。
鬼島は泣いていなかった。夢を見たときはいつも頰が涙で濡れていたが、記憶の中の自分はただ唇を噛み締めて親友の死体を見下ろしていた。
少年の身体がブルーシートで覆われ、表面に溢れた血に映り込んだ月が揺れていた。
「必ず、殺してやる」
呟いた鬼島の声はまだ幼さが残っていた。
くたびれたような溜息が返って、顔を上げると自分と年のさほど変わらない女が立っていた。
「そうわって除霊隊に入る子もいるけど」
身体より大きなスーツのジャケットをボタンを留めずに羽織った女が虚ろに微笑む。
「でも、ひとを害す妖怪はもうほとんどいない。戦う相手はちょっとした心霊現象ばかり。そのうちにみんな疲れて、忘れていっちゃうんだ」
「俺は忘れない」
鬼島は声を張り上げた。
「みんなそう言ってたよ」
女のやけに大人びた口調に苛立ちが募る。
「じゃあ、どうしろっていうんだ」
女は一瞬表情を打ち消し、鬼島を見た。
「妖怪を憎んでもいつか限界が来る。それまで、私を恨めばいいよ」
女の指がそっと差し出され、鬼島の唇に触れた。咄嗟に身を引くと女が笑う。
指の先に錆のような血の跡があった。噛み締めすぎて切れた口の端から思い出したように鉄の味が広がる。
「私は除霊隊の紫苑。君の友だちが殺されたのは私が間に合わなかったせい。だから、復讐相手が見つかるまで私を恨んで」
夜闇の中で女の顔だけが白く輝いていた。
身体に霜を積もらせた紫苑が震える。
その上に楕円の刃が迫っていた。
「くそっ……」
鬼島は震える指で引き金を引いた。熱い薬莢が顔に跳ねて頰を焼く。ぎっと叫んで猿が後ろに倒れた。
「紫苑、起きろ!」
凍りついた喉で振り絞る。
「今くたばったら死んでも恨むぞ!」
紫苑が低く呻いた。
荷物棚から飛び降りた猿たちを後鬼の両腕が弾く。
頭を抑えた紫苑がふらつき、先に立ち上がった鬼島が腕を引いた。
冷気が痛いほどに立ち込めていた。
ふたりは視線を交わし、手と銃を構えた。
弾丸が座席を抉り、波の花に似たウレタンが舞う。鬼の拳撃が猿ごと車両の壁を穿ち、金属がひしゃげる音が響く。
「まだ出てこねえか……」
腕を垂らした猿が駆けてきた。携えた刃で床が削れ、火花が散る。鬼島が銃口を向けた瞬間、天井が炸裂したような一際激しい火花が弾けた。
ドーム型の天井が引き裂かれていく。逆さに泳ぐ鮫のヒレのような刃の先に砕かれた蛍光灯が降り注いだ。
鋼鉄が絶叫した。
新幹線の二階部分がアイスの蓋をめくるように半分切り離され、天井に代わって真っ赤な空が頭上に広がった。
鉄の破片を撒き散らし、刀身一面に巨大な葉を生やしたドスを振るって、風に煽られながら浅緋が階下を覗き込んだ。
「殻取りまで終わったぜ、店長!」
声とともに夏の暑い空気が流れ込み、車内に張った氷が溶けていく。
再び咆哮が鳴り響いた。
鬼島と紫苑が同時に振り返った先で、剥がれた天井と床を繋ぐ巨大な肉の柱が糸を引いていた。
「貝柱か!」
「
肉の柱の奥に揺らぐ粘質の塊がある。
「たぶんあれが蜃の急所」
二枚貝を打ち合わせるように天井と床がけたたましく鳴った。上部に取り付いていた浅緋が目を細めた。
肉の柱が収縮し、車内が歪んでゆく。
引き寄せられた天井が音を立ててひしゃげた。
「俺たちごと殻に巻き込む気か……」
鬼島が銃を構えた瞬間、もう二本の赤い柱が床を貫いて現れ、天井に手をついた。
「前鬼、そのまま持ち上げろ!」
覚束ない足取りで車内に踏み出した芥田が叫ぶ。充血した目が見開かれ、赤鬼の腕が垂れ込める天井を無理矢理押し上げた。
咆哮が怒りから苦痛に変わる。
肉が千切れる音を立て軋む貝柱に霜が巻きついた。
「行って!」
紫苑の声に合わせて青い鬼が突進する。最奥で蠢く塊に飛び込んだ後鬼が、脈動する肉に呑み込まれた。
鬼島は弾を装填し、目を閉じた。
「終わりだ!」
銃口から放たれた弾丸が肉塊を貫くのと、階上の浅緋が振り抜いたドスが残りの天井を切り飛ばしたのは同時だった。
走行音に混じるくぐもった絶叫が響き渡る。
切断された車両半分が粉々に砕け、浅緋が一回床に着地するのに合わせて霧散した。
巨大な肉の柱と、車内に散らばる凍りついた猿の死骸と、半壊した新幹線の全てが蜃気楼のように消えていった。
「ご利用ありがとうございます、まもなく––––」
軽快なアナウンスが響いた。
我に返った鬼島が辺りを見回すと、何の変哲もない新幹線の二階席が広がっていた。
隣に座った氷下魚と、向かいの紫苑、芥田も青紫のシートが取り囲む静謐な車内を呆然と見回し始める。
「まもなく大宮、大宮駅に停車します––––」
悪夢の中の陰鬱な声と違うハリのある車内放送に鬼島は瞬きした。
「まさに夢の如しって訳か。張り合いのねえ話だな」
通路を挟んだ席に座る浅緋が不機嫌そうに呟いた。
その横顔の先に広がる窓の外は夏らしい青空が緩やかに後方に流れていた。
「帰ってこられたんですね」
氷下魚が寝ぼけたような声で言う。
「そうだね、芥田くんも平気?」
紫苑に問われ、芥田は目の辺りに手をやってから困惑気味に頷いた。
新幹線が静かに停車する。
鬼島は自分の頬に触れた。薬莢がぶつかった頬骨の上にまだ熱がくすぶっているような気がした。
紫苑がくすりと笑って肩に手を置いた。
「お疲れ様。勝ったんだよ、私たち」
鬼島はホームを歩くひとびとを眺めて頷いた。
「この前新潟まで行く気か?」
浅緋が肩を回しながら立ち上がった。向かいの席にもう少年の影はない。
「降りるか」
鬼島が言うと、氷下魚が安堵したように微笑んだ。
***
ドアにかかったベルを鳴らし、携帯を片手に
「あのひと、ちゃんと仕事してる?」
ワンピースの裾を足までたくし上げてカウンターに座った
「ちゃんとしてるよ。食洗機もないんだここ」
洗い上げた皿と布巾を手に、袖をまくった
「どうかしたの」
椿希はグラスに水を注ぎ、唇につけるのを躊躇って言った。
「
冬瓜が口笛を吹いた。
「マジかよ、歌舞伎町の奴らを皆殺しにした怪異をか」
「そっか、お礼を言わなきゃだね」
丑巳は淡々と皿をカウンターに並べ始めた。
冬瓜は頬杖をついて厨房を睨む。
「なあ、お前らってもっと凶暴じゃなかったか? 嫁さんはともかく旦那はどうしたんだよ」
「腑抜けたのよ」
椿希が水を飲みながら短く言う。
「牛鬼っていえば毒霧吹いてひと襲う怖い奴だったろ」
「悪役レスラーじゃないんだからさ。昔の話だよ」
丑巳は並べ終わった皿の縁に触れた。
「僕たちは先の戦争のとき本所にいたからさ。まあ散々だったよ。その後生まれ直したはいいけど、妖怪よりもっとすごいものを作って人間同士で殺しあってるんだから。腑抜けるしかないさ」
椿希は手の中のグラスに話しかけるように俯いた。
「怪異の連中は何がしたいのかしらね。もう妖怪の時代じゃないのに。今更下剋上なんて」
答えるものはなく、ドアにかかったベルがエアコンの風でかすかに鳴っただけだった。
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