猿、鬼、トラウマ

長ドスの表面に生えた乱杭歯が擦り合わされ、音を立てる。

「こいつは……大物か?」

刀身に合わせて浅緋あさひも犬歯を見せた。



四匹の猿が金切り声をあげる。

「野良妖怪は退がっていろ!」

芥田あくたが鋭く叫び、重心を低く構えた。

「来い、前鬼ぜんき!」


両端の車窓が割れ、車内に生温かい風がどっと吹き込む。列車の外から突き込まれた二対の赤い腕が前のめりになった二匹の猿を正面から薙ぎ払った。

熟れた果実を潰すような音がして血を塗った車両のドアがひしゃげる。



それを合図に残った猿が駆け出した。

座席を蹴って中で回転した猿たちが芥田に接近し、包丁を振り下ろす。

後鬼ごき

紫苑しおんが素早く指先を組むと、座席の影が伸びて混ざり合う。

刃が芥田に触れる寸前、通路の中央に現れた二メートルほどある青い鬼が猿たちを掴んで床に叩きつけた。潰れた猿が霧のように消えた。



「前鬼に後鬼、修験道しゅげんどう開祖の式神か」

座り込んだままの氷下魚こまいを背に、銃を構えた鬼島きじまが呟く。

「陰陽術の本懐だ。先輩から教わらなかったのか」

芥田の挑戦的な口調に鬼島は肩を竦める。嗜めるような視線を送った紫苑の後ろのが暗く陰った。


「先輩!」

鬼島の撃った弾丸が紫苑の肩を超え、闇を貫通する。倒したはずの猿が歯を剥き出して再び消えていった。

「まだいたの……」

四方から汚れた毛並みが覗き、猿たちがシートの飾りレースを引き剥がして座席に飛び乗った。



「次は活け造り……活け造り……車内では携帯の電源を切ってお静かに願います……」


アナウンスと同時に赤鬼の腕と青鬼が動いた。

狭い車内を駆る赤い両腕が猿の頭に拳を振り下ろし、青鬼が携えた水瓶を振ると、溢れた液体に触れた猿の皮膚が爛れて蒸発する。

湯気の幕を破って紫苑に飛びかかった猿を銃弾が撃ち抜いた。


「キリがねえ……」

空になった銃倉を叩く鬼島の肩越しに鋭い鳴き声が響いた。

車掌服の猿が包丁を前に構えて突進する。

車両の奥から駆け抜けた浅緋が両端の荷物棚を掴んで大きく身を逸らした。

追ってきた猿を後ろに上がった足で蹴り抜き、遠心力で勢いづいた踵が鬼島に迫る猿のこめかみを抉った。


重心を崩して倒れる猿たちの腹をドスが切り裂き、溢れた臓物が弧を描く。

四匹を一閃したドスのひっ先で絨毯の床を叩き、浅緋は眉を寄せた。

「味が薄い上に猿のくせに潮臭え……気色悪ぃな」



血痕と擦過痕の残る車内に猿の気配はない。

「ここじゃ挟み撃ちにされる。移動しよう」

紫苑が辺りを見回してから指先を振り、青鬼が消える。芥田が手を叩くと毛の生えた赤い豪腕も消えた。


「いい加減立て」

鬼島を見上げて、座席の間に挟まった氷下魚が首を振る。鬼島は溜息をついて氷下魚を脇に抱えた。

「大変だなあ、旦那」

浅緋がドスと鞘を持ったまま、車両のドアを蹴破った。



静まり返った車内にひと影はない。

車窓に映り込む空は血の色だ。

「毎度芸のねえこった。まさに猿のセンズリだな」

「次ろくでもねえこと言ったら一発撃つぞ」

窓に鼻をつけて笑う浅緋を鬼島が睨む。


「駄目です、移動しても……」

床に降ろされた氷下魚が震えながら言った。

「猿夢って車両ごとに殺し方が変わるんです。活け造りの次は目玉を抉られて……」



「次は抉り出し……抉り出しです……」


陰鬱な車内放送が響いた瞬間、芥田が声を上げてうずくまった。

「芥田くん、しっかりして!」

目を抑えて呻く後輩に紫苑が駆け寄る横で氷下魚が悲鳴を上げた。

「氷下魚!」

震える肩を掴んだ鬼島の手が極度に冷やされた金属に触れたように貼りついた。吐き出す息が白くなり、睫毛に霜が降りる。


「お爺ちゃん、お婆ちゃん、ごめんなさい。でも、私のせいじゃないよ……」

急激に温度が下がる車内で氷下魚が譫言のように繰り返す。喉に雪崩れ込む冷気に紫苑が噎せ返った。

「くそっ……落ち着け!」

鬼島の声に氷下魚が目を見開き、車両を覆う霜がひび割れて崩れた。



頭を抱える芥田の肩を抱きながら紫苑が叫ぶ。

「車両ごとに出現する呪いかもしれない。連結部まで移動しよう。立って!」

「浅緋!」

鬼島の号令でコートの裾を翻し、浅緋がドアを閉ざす氷の壁を刺突する。

荷物棚から天井を伝って現れた猿たちを返す刀で斬り伏せた隙に、それぞれ氷下魚と芥田を抱えたふたりが連結部へ飛び込んだ。



重たいドアが閉まり、四人が床に倒る。二階建ての車両の連結部は宇宙船のような銀色の壁と迫り出したトイレ以外何もなく、喧騒を隔絶するようにくぐもった走行音のみが響いていた。


「正攻法じゃ分が悪いと見て絡め手で来やがったな」

ドスを肩に担いだ浅緋が唾を吐く。壁にもたれた紫苑が肩で息をしながら頷いた。


鬼島は氷下魚の前に屈み込んだ。

「しっかりしろ、何を見た」

氷下魚は声を振り絞り、

「お爺ちゃんお婆ちゃんが……」

と呟いた。

「私のお母さんも雪女で、浮気したお父さんをお母さんが氷漬けにして失踪しちゃって、父方の祖父母に引き取られたんですけど、息子を殺した女の子だってずっと嫌われてたんです。みんな私のこと邪魔なんです……」

膝に顔を埋めて啜り泣くだけの氷下魚の肩を叩き、鬼島は後ろに視線をやった。


「芥田くんは夢は見てないけど目が真っ赤。抉り出しは眼球のことか。大事には至ってないけど放っておくとマズいかも」

紫苑が座り込んだ芥田にジャケットをかけると、布地の向こうから「不甲斐ないです」と弱々しい声が聞こえた。



鬼島と紫苑は視線を交わして移動し、螺旋状の階段を下ったところで足を止めた。

「猿夢の最後は……」

紫苑が首を振る。

「語り手が三両目に乗ってて、挽き肉にされる寸前に目覚めて逃げるけど、また同じ夢に戻されて死までのタイムリミットが少なくなる」

「このままじゃジリ貧ってことか」

鬼島は窓の外を見たが、連綿と赤が広がるだけだった。


「十六両編成で俺たちがいたのが十四号車。一両飛んで今いるのが十二、三号車の連結部。三号車まで突っ切るのはな……」

「協会の連中は玉無しばっかりかあ」

わざとらしい溜息をついて浅緋が踵を鳴らした。

「お前は平気なのか?」

「ああ、平気だね」

浅緋は自らのこめかみを叩く。

「俺の中じゃ餓鬼どもがずっと騒いでる。悪夢ぐれえ今更どうってことねえよ」


十二号車のドアの前に立ち、浅緋は鬼島を振り返った。

「ここは異界だ、乗客はいねえ。今から蜃気楼見てえなエテ公と残りの車両ぶった切って戻ってくる。そうすりゃ残り四両、一個戻れば三両目になる。それまでに腹括っときな」

鈍い音がしてドアが閉まり、窓ガラスに映る寄れたトレンチコートが見えなくなった。



「行っちゃった、すごい妖怪を飼い慣らしてるね」

「先輩こそ、あんな式神が使えたの知りませんでしたよ」

紫苑が眉を寄せて苦笑した。

冴人さえとくんがいなくなって、私も強くならなきゃと思って頑張ったんだよ」

鬼島は目を逸らし、霜が雫になって玉を作る靴先を眺めた。


「冴人くん、煙草ある?」

「ありますよ」

箱とライターを差し出してから、鬼島は禁煙の字が踊るプレートを見上げた。

「異界だからノーカウント」

少女のように笑う紫苑の隣に腰を下ろし、鬼島も一本取り出してライターを擦った。


「何で、除霊隊をやめたの」

煙に混じった紫苑の言葉が銀の空間に白く解けていく。

「妖怪を恨むのに疲れたんだと思います……でも、忘れた訳じゃない」

「私の言ったことも覚えてる?」

鬼島は視線を上げて紫苑の横顔を見た。白い鼻梁と頬にほつれた亜麻色の髪が線を引いていた。

「忘れませんよ」

紫苑が目を細めて笑った。



鬼島は胸ポケットから出した携帯灰皿に吸い殻をねじ込み、かぶりを振った。

「腹括んなきゃな……」


立ち上がった鬼島の脳裏に血溜まりの中に倒れる少年と歯を剥き出した猿の声が浮かぶ。

苦痛に耐えるように強く目を瞑った。


「先輩、悪夢を見せる妖怪だと何がいます?」

「西洋ならナイトメアやサキュバスがいるけど、妖怪だと浮かばないな……」

猿が纏った車掌服の背に染め抜かれた猿夢の文字が蘇った。

「わざわざ名前を書くってことは名付けで存在を縛ってんだ。浅緋が言う通り都市伝説のガワをかぶせた妖怪だとしたら……」



猿のくせに潮臭え。蜃気楼みてえな。ヒダルガミが吐き捨てた言葉を反芻し、鬼島は声を上げた。

「浅緋、戻れ!」


「何かわかったの?」

戸惑う紫苑に頷いて見せる。



「日本にも幻覚を見せる妖怪はいる。蜃気楼の由来、気を吐いて楼閣を幻視させる蛤型の化け物––––蜃だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る