朝、夕、悪夢

紫苑しおん、じゃなくて紫苑先輩でしょ?」

 女が眩しそうに目を細めた。



「店長、知り合いなんですか」

 氷下魚こまいが小声で袖を引く。鬼島きじまはまあなと答えて、視線を逸らした。

「あれが上野の奴らですか」

 紫苑の隣に立つ長身の青年が囁いた。


「そういう手前らは何だよ」

 前に進み出た浅緋あさひに青年が眉間に皺を寄せる。鼻筋に一直線に走っている古い傷跡も歪んだ。

 紫苑が苦笑して間に入った。

「これから一緒に仕事するんだから揉めないで。私は東京人妖協会・除霊隊の陰陽師、紫苑。こっちは後輩の芥田あくたくん。で、そっちが元後輩の冴人さえとくん」

「元後輩?」

 芥田と呼ばれた青年が目を剥いた。


 改札の前で向き合う五人に通行人の視線が集まる。少し離れた場所で署名を求める運動家たちの声が陽射しに溶け出して響いた。

「詳しいことは中で。先輩、目星はついてるんでしょう」

「可愛げがなくなっちゃったなあ」

 紫苑は肩を竦めて指に挟んだ五人分の入場券を振った。


「すごく綺麗なひとですよね……」

 遠巻きに眺めていた氷下魚が小さく呟いた。浅緋が吐き捨てる。

「やめとけ、雪女の横恋慕なんてろくなことにならねえぞ」

「そんなんじゃないですよ」



 改札を抜けて色褪せたパンダの像を通り過ぎ、五人は地下のホームへ続く階段を下った。

 会社員が引くキャリーケースを避けながら氷下魚が言う。

「除霊隊って何ですか、店長」

「ひとを害した危険な妖怪を排除するための協会の特殊部隊みたいなもんだ。二年前まで俺もそこにいた」

「どうりで銃の扱いも慣れてたわけだ」

 浅緋が笑う。


「妖怪に銃って効くんですか」

「効くよ」

 紫苑が代わりに答えた。

「妖怪は神秘の存在だからね。神秘を打ち破るのは人間の叡智と文明で、銃はその最たるもの」

「だが、所詮代替え品だ。正式な陰陽術とは比べるまでもない」

 先頭を歩く芥田が振り返らずに鼻を鳴らす。

「除霊隊は本来終身雇用だぞ。化け物喫茶の店主に転職する奴なんて聞いたことがない。よほど適性がなかったか、怖気付いたんだろ」

「かもな」


 鬼島は取り合わずに辺りを見回した。

「結局どこに向かってるんです」

「猿夢の話は聞いてる?」

 エスカレーターの前で紫苑が振り返り、鬼島は首肯を返す。

「怪異の出現は条件である程度縛ることができるから、こっちで場所をお膳立てして迎え撃つの。ここで猿の電車といえば、新幹線を模した上野動物園のお猿電車」

 階下から生温かい風がどっと這い上がった。

「上野発の新幹線ホームだよ」

「当たってたじゃねえか」

 浅緋の詰るような視線を無視して、鬼島はエスカレーターに踏み出した。



 強い照明が光の柱のように天地を貫くホームに、流線型の車体で風を切り裂いて新幹線が滑り込んだ。

「十二時四十六分発の上越新幹線に乗るよ。どれくらいで怪異が出現するかわからないから終点までの切符が支給されてる。指定席ね」

 五人はアナウンスの声に急かされて車両に乗り込んだ。



 静かな車内に満ちる微かな埃の匂いを吸い込んで氷下魚が楽しげに言う。

「新幹線、初めて乗りました」

「遠足じゃねえぞ」


「五人だからひとりあぶれちゃうんだけど……」

 青みがかったシートを回転させながら紫苑が指を折る。

「俺はこっちで好きにやるからお前らは道中楽しんでな」

 浅緋が通路を隔てた座席に音を立てて腰を下ろした。


 窓際で紫苑と鬼島が向かい合い、紫苑の隣に芥田が、鬼島の隣に氷下魚が座る。

「車掌が来る前に刀は隠しとけ」

 ベストのボタンを外しながら声をかけた鬼島に浅緋が手を振った。


「彼は何の妖怪?」

 紫苑が頬を寄せて鬼島に小声で囁く。

「ヒダルガミです。八坂やさかさんが締め上げてますから、飯だけ食わせておけば暴れませんよ」

「八坂さんか……」

 紫苑は四人の顔が反射する暗い窓を眺めた。



 新幹線が緩やかに発車した。

 他に乗客のいないことを確かめて紫苑が紙袋を差し出した。鬼島が受け取って中を覗くと、拳銃の銀の持ち手と予備の弾倉が鈍く光った。

「芥田くんはこれで五回目の任務だっけ?」

「はい、覚えててくださったんですね!」

 快活な声で答える芥田に紫苑が微笑む。

「無事で帰ったら記念に飲みに行こうか。冴人くんも久しぶりに付き合ってね。そっちの彼女も」

 芥田が表情を曇らせた。


 氷下魚は名乗ってから気まずそうに指をくねらせながら聞いた。

「おふたりは除霊隊のときからのお知り合いなんですか?」

「そう、私が二個上の先輩で、銃の撃ち方もお酒も教えたの。冴人くんの正式入隊は大学卒業後だけど、十八からの付き合いだからもう八年かな。私もおばさんになる訳だ」

「そんなことないですよ」

 口を挟んだ芥田を横目に、鬼島は窓際で頬杖をついた。


「大学なんか行かずにすぐ入隊するつもりだったのに」

「頭いいんだから行かなきゃ駄目だよ」

「結局飯屋の店主ですよ」

 紫苑が口元に手を当てて笑う。


 芥田が腕を組んで座席に頭を預けた。

「冴人……お前が鬼島冴人か」

「知ってんのか」

「知ってるさ。除霊隊で最も凶暴な男、だろ」

 鬼島は窓から視線を逸らさない。

「妖怪を祓うのが俺たちの役目なのにお前は殺すことに命を懸けていた。無駄な苦痛を与えない、消滅した妖怪が新たに生まれ変わった場合別個体として扱う、幾つも規約を無視した。違うか」

 紫苑が隣で制すのも構わず芥田が続ける。

「殺し屋の真似事ができる天職を何故やめた。ひとと妖怪を保護する化け物喫茶なんてお前から一番程遠い––––」



 嚆矢のように飛来した紙筒が芥田の鼻先を掠めて窓に直撃した。座席備え付けのパンフレットがばさりと床に落ちる。


 向かいの座席から身を乗り出した浅緋が目を光らせた。

「除霊隊なんざ知るかよ。知ってんのは人妖協会ってのは筋モンと一緒、貫目かんめが大事ってことだ。そいつは俺の雇い主だぜ。飼い主に喧嘩売ったら飼い犬に噛まれるってわかるよなあ」

「やめろ、浅緋!」

 立ち上がった鬼島の手を紫苑が抑えた。


 通路の先から車内販売のカートを押していた販売員が訝しげな視線を向けていた。

 鬼島は浅緋を見下ろし、舌打ちして座り直す。

「楽しい遠足になりそうだな」

 呟いた浅緋を睨んだ後、車両に広がる沈黙の中をカートの車輪が絨毯を転がる音だけが響いた。



「私も除霊隊とか詳しくないですが……」

 俯き気味に氷下魚が口を開いた。

「店長はいい店長ですよ。私を研修期間でクビにしなかったひとは初めてです」

 鬼島は額に手をやって息をついた。


「何も起こりませんね」

 芥田が腕時計を見やった。

「そうだね、すぐに襲ってくると思ったんだけど」

 それと、と紫苑が続ける。

「冴人くん、ヒダルガミに名前をつけたの?」

「今朝も妖怪に叱られましたよ」

「高名な陰陽師でもない限りそこまで名付けの意味は重くないんだけど……『あさひ』か」

 鬼島は目を伏せた。


 電子音が鳴り、紫苑が慌てて携帯を耳に当てる。

「八坂さん、今もう新幹線の中で」

「協会で最も凶暴な女、だ」

 浅緋が座席の背もたれに腕をかけて笑う。

「うん、そろそろ東京を出る頃だね」

「どこで見てるんですか」

 紫苑の苦笑に静かな女の声が続いた。

「気をつけて。東京に私が張っている結界を抜けたら何が起こるかわからない」


 低く平坦な車内アナウンスが響いた。

 到着駅はくぐもって聞き取れない。


 鬼島がスピーカーに視線をやったとき、急に車内に光が満ちた。



 新幹線にひしめく座席が消え、だだ広い通路の向こうくすんだ灰色のシートがある。窓の外は夕焼けが広がり、つり革や車内広告を温かな橙色に染めていた。

 鬼島は呑む。


 目の前の座席に少年が座っていた。体操着の袖や裾から覗く手足は折れそうなほどに細い。

「冴人!」

 少年が歯を見せて笑う。欠けた前歯が彼の父親に折られたものだと知っていた。

 鬼島はふらつきながら立ち上がった。車内の揺れに足を取られそうになる。


 少年が身体ごと背を向けて叫んだ。

「すっげえ、デカいレストラン!」

 燦然と輝くランプに似たガラス張りの洋食店を指してから少年が向き直る。

「冴人がレストランとかカフェ開いたらさ、おれもそこで働くんだ。そうしたら、まかないいっぱい食わせてもらえるだろ」

 鬼島の震える唇がひとりでに動いた。

あさひ……」


 少年の可笑しげな顔を血飛沫が搔き消した。

 踏み出しかけた鬼島の脚に熱い血潮がかかる。

 少年の欠けた歯の間から細い息が漏れた。

 糸を切られた操り人形のように少年の身体が座席から崩れ落ち、べしゃりと音を立てて床に血が広がる。

 赤い水溜りの中に虚ろな眼光が反射した。


 少年の背後に何かがいる。

 鬼島は咄嗟に銃を抜いた。



「冴人くん!」

 紫苑の声に我に帰った鬼島の目に新幹線の座席と怯えた氷下魚の顔が映る。

 手の平の重みに視線を下ろすと、虚空に向かって銃を突きつけていた。


「何をしている!」

 怒鳴る芥田の声がひどく遠い。鬼島は手の甲で頰に触れ、濡れていないことを確かめた。

「冴人くん、何が見えたの」

 言葉に詰まった鬼島の代わりに、陰鬱なアナウンスが応えた。


「次は……活け造り……活け造りです……」


 照明が一斉に明滅した。

「何これ……」

 紫苑が黒と白の入れ替わる車内を見回す。氷下魚が悲鳴を上げて座席からずり落ちた。

「これ、猿夢です。殺し方のアナウンスがかかってその通りに殺されるんです!」

 座席と座席の隙間に挟まった氷下魚がうわごとのように繰り返した。

「殺される。私たち、活け造りにされちゃうんだ……」



 暗転する車内で金属を擦り合わせる音が聞こえた。

 車両のドアがひとりでに開き、ずるりと粘質の影が雪崩れ込む。

 影は四つに分裂し、擦り切れた車掌制服を纏った猿の姿が輪郭を表した。四匹はみな刺身包丁を携えていた。

 芥田が座席を乗り越えて通路に飛び出し、紫苑がそれに続く。


「やる気だなあ?」

 座席に鞘を投げ捨て、浅緋が通路の中央に立った。

 猿たちが唾液を滴らせ、威嚇にも嘲笑にも似た鳴き声をあげる。

「なあ、猿の脳みそ食う国もあるんだってよ。どんな味か試してみるか」


 抜き身の長ドスの刀身がぎらりと光り、刃紋から突き出した乱杭歯が打ち鳴らされた。

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