夕暮れ、憧憬、説得
夜明けの藍色がわずかに残る空を突き刺す針のようなスカイツリーが見える。
「やっぱり花やしき全体が異界と化していたね」
「気づいていたんですね」
「攻撃してくる様子がなかったから静観していたけど……既に私の血で結界を汚しておいた。今ならひと押しで破れるはずだよ。今夜から封鎖して討伐に当たるつもり」
「その前に俺ひとりで花やしきに入らせてもらえませんか」
鬼島は陽光を吸って熱くなった窓のサッシに触れる。
「中に囚われている霊がいました。そいつを出して巻き込まないで済むならそうしてやりたい」
「優しいね」
笑いを含んだ声の後、煙草をふかす湿った吐息が聞こえた。
「それは長生きしない優しさだね。説得は五分でして。その後は結果に関わらず突入させるよ」
「わかりました」
電話が切れた。鬼島は鍵を開け、窓を開け放つ。
カーテンとともにトレンチコートの裾が風に翻った。
「八坂は何だって?」
ベランダの手すりに座り、上野の街を見下す
「五分もらえた」
「馬鹿だな」
「知ってるよ」
浅緋は鼻で笑うと畳んだ黒いTシャツとジーンズを鬼島に押しつけた。
喫茶「瑞祥」を訪れると、いつもの面々の他に
髪をオールバックに撫でつけた壮年の男が鬼島を見て頷く。
「私が先日花やしきを訪れた者です。家族連れて遊びに行っただけですが。中に囚われている霊を助けたいとのことでしたね。そのために説得を試みるとか」
鬼島は無言で首肯を返した。
座席に座って爪を磨いていた若い男が声を張り上げる。
「馬鹿じゃねえのか、作戦っていうのは時間が長引くほど難易度が上がるんだぜ」
男が顔を上げ、麻雀牌を模した耳飾りが揺れた。
「怪異なら妖怪も幽霊も同じだ。まとめて祓っちまえばいいんだよ」
「同じというなら妖怪の共生を謳う人妖協会が幽霊も保護すべきじゃないのか」
淡々と返した鬼島に男が眉をひそめた。
「私も反対だ」
缶ビールを片手に
「その少女の幽霊が今回の怪異の撒いた囮ならどうする。敵の思うツボだ」
ふらつきながら近寄った彼女から酒の匂いが強く漂った。
「私は児童福祉のために来た訳じゃない。復讐だ。それが叶わないなら付き合う義理はないぞ」
「面白い女だな。俺が手伝ってやってもいいぜ」
麻雀牌の耳飾りの男に淀んだ視線を返し、天丸は缶に唇を近づけた。
「面白くなくても肝臓が無事で借金がない女を選べ。あと、私は人妻だ」
男は肩を竦めた。
「借金まであんのかよ」
「心配しなくてももうすぐ完済する予定だ。それよりお前は不満じゃないのか」
横から口を挟んだ浅緋に天丸が向き直る。
「俺はこれだからよぉ。飼い主が決めたなら文句は言わねえよ」
浅緋は指先で首に円を描き、紐を吊り上げる仕草をした。
「やれるだけのことはやりましょう。私も協力します。成功した暁には覚えておいでですね」
纏依が澄んだ目で鬼島を真っ直ぐに見つめた。鬼島は否定も肯定もせずに視線を下げた。
雷門の裏手の路地は参拝客と裏の居酒屋へ向かう客で賑わっていた。
「何も知らずに呑気なもんだ」
海外のポルノ雑誌の表紙をコラージュしたアロハシャツの裾を地面につけて座り込んでいた
「表面上でも平和が守られているなら喜ぶべきでは」
傍らに立つ纏依の返事に冬瓜は吐き捨てるように笑う。
「ここが怪異の本拠地ってんなら仕掛けに来る奴がいる。おれたちで迎え撃つぜ」
「もう罠は張ってあります。後は鬼島店長だけが不安ですね」
「人間想いな妖怪もいたもんだ」
「妖怪はひとがいなければ生きられません」
纏依は花やしきの外壁から覗く黄色のタワーを見つめて目を細めた。
浅緋と天丸が乗る東武伊勢崎線は浅草に差し掛かっていた。
窓が夕陽を受けて一斉に輝き、ガソリンをこぼした水溜りに似た虹色を作る。
「ここから花やしきが見えるかな」
座席ひとつ分空けて浅緋の隣に座る天丸が呟いた。
「知らねえよ」
彼女は顔を背けるように身体ごと窓の方に向けた。
「旦那との関係は良好じゃなかったんだ。やっぱり妖怪と人間の結婚は難しいのかもしれない。私が台所で酒を飲むようになってからは特に」
「旦那が死ぬ前から呑んでたのかよ」
「アル中は一昼夜でなれるものじゃない」
「威張って言うことか」
「旦那が死んだ日、身元の確認のために呼ばれて、朝出て行ったときの服装を聞かれて、答えられなかったんだ。見送りなんてもうずっとしてなかったから……」
天丸の肩が小さく揺れた。
「でも、付き合い始めてすぐに花やしきに行ったときの服は覚えてた。いつもはスーツを着てたから、ネクタイピンをあげたんだけど、そのときはポロシャツで着て、あのひと襟に安全ピンみたく私のあげたピンをつけてたんだ」
「馬鹿みてえだな」
浅緋が背後の窓ガラスに頭を預ける。
「馬鹿どうし似合いの夫婦だ」
「だったらよかったな」
天丸はそれ以上何も言わずビルの間に消えていく夕陽を眺めていた。
色を失い始めた空の下に鎮座する花やしきに光はない。
「点検のため本日休園」の看板と鎖で封鎖された入り口の前に赤毛の女と黒い袴の男が立っていた。
鬼島は昨日の喧騒と打って変わって静まり返った門に視線を巡らせる。
姿は見えないが、店を訪れた陰陽師と冬瓜たちは既に待機しているらしい。
「八坂さんから聞いてるね。五分だよ」
赤毛の女の声に頷き、鬼島は鎖を跳ね上げた。
無人の遊園地に晩夏の風が吹く。
白鳥の乗り物が浮かぶ水面が波立ち、回転木馬とジェットコースターのレールが軋んだ。
文明の死骸のような光景の中心に、麦わら帽子を目深にかぶった少女が座り込んでいた。
「もう閉園時間だぞ」
鬼島の声が虚しい空間に反響した。
少女は日除けの下の瞳を動かし、落ちていた石を拾って放り投げた。
「出られないの」
少女は昨日と同じ言葉を繰り返す。
「出られるよ」
鬼島は少女に視線を合わせて屈んだ。
「迎えに来た。手伝ってくれる大人もいる。ここは危ないんだ」
桜貝のような小さな爪を揃えた脚は裸足だった。
「一緒に出ないか」
浅緋と天丸が駅に降り立ったとき、電子音が鳴った。
「八坂から通信だ」
「その服のどこに隠してんだよ」
黒いスリップドレスの裾から携帯電話を取り出して天丸が耳に当てる。
「鬼島君が花やしきに入った。急いでくれる?」
「あの男、本当に説得する気か」
浅緋が目配せをし、天丸が脚を早める。
雑踏に肩をぶつけながら雷門を潜り、シャッターが降り始めた仲見世通りを進んだ。
「正直言って無謀だね。あそこの怪異は臆病だけど今までのどれよりも強い憎悪を感じる」
「敵の正体は断定できたのか」
生傷のある爪先が跳ね、少女が立ち上がった。
「昔ね、お兄さんみたいに迎えに来てくれるって言ったひとがいたの。ずっと待ってた」
少女は帽子を取ってくるりと回った。
「でも、来なかった。私はずっと閉じ込められたまま。毎日毎日窓から外を見てたの。今日こそは来てくれるって」
飾りリボンとワンピースの白が闇に広がる。
「今日がその日だと思えないか」
少女は大人びた笑みを浮かべた。
「あれははちょっと特殊かな。“混ぜ物”にされる前から性質が変容してた。長い年月をかけてね」
八坂の声が電話から響く。参道からたなびく線香の煙が絡みつくのを天丸が手で払った。
「時折訪れて祝福を与える神に近い存在を、利益欲しさに人間が閉じ込めたんだよ。移り行く者をひとつの場所に留まらせ続けたらその性質は反転する。穢れを溜め込んで、福を与えるものから災いをもたらすものにね」
浅草寺に背を向けて道を曲がる。夜闇が一層濃くなった。
「まどろっこしいのは抜きにしようぜ」
焦れたように浅緋が口を挟んだ。
「もう遅いよ」
少女は回るのをやめた。
「俺もそう思ってたときがあった……俺を外に連れ出してくれる友だちが死んだんだ。殺された。全部手遅れだと思った」
鬼島は立ち上がって言葉を紡ぐ。
「でも、今こうしてる。まだ遅くないよ」
少女の瞳に月明かりが反射し、一瞬涙をたたえたように見えた。
「お兄さんがあのひとだったらよかったのに。そうしたら、私はこんなにならなかったのにね」
纏依が弾かれたように顔を上げた。
「来ます」
冬瓜が表情を硬くした。
「作戦失敗ってやつかよ、期待してなかったけどな」
纏依は哀しげに首を振った。
少女は再び帽子を被り直した。顔を覆い隠すように深く。
「お兄さん、私が幽霊じゃないって気づいてたでしょ」
「ああ、妖怪だろ。俺の周りにもたくさんいる」
鬼島は静かに返す。少女の口元だけが笑った。
「もう妖怪じゃないよ」
少女の影が伸びる。長く大きく膨れ上がった影はメリーゴーランドの馬にかかり、赤と白の幌にかかり、本来存在しないはずの高くそびえる観覧車にまでかかった。
鬼島は目を伏せた。
浅緋と天丸は疾走した。路地を抜けると花やしきが見えてくる。
待機していた纏依と冬瓜の姿が覗いた。
「あれの正体は座敷わらし。ひとつの家に閉じ込められ続けて怨霊に近い存在まで変容した化け物だからもうそうは呼べないな」
電話越しの八坂が囁く。
「今のあれに被せられた怪異の名は『八尺様』」
浅緋と天丸は足を止めて花やしきの門を仰ぎ見た。
外壁から突き出した巨大な麦わら帽子の影が上空に伸びていた。
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