第12話
閉店後、事務所で缶コーヒーを飲みながら、長江は苦々しく眉根を寄せていた。
倉庫内で安堂に問われた「マンボウに憧れる女性が好きなんですか」の言葉に、内心酷く動揺しつつも、
『はい?何のことですか?』
と冷静を装って答えてみた。だがペットボトル飲料を落とした時点で、長江が【LABIY】に小説を投稿している事実は露呈した。
収入を得ているわけではないのだ。副業には当たらない。単なる趣味でしかない。
それでも、人に知られることは長江の本意ではなかった。
(こんなことなら、面倒がらずにペンネームをちゃんと考えるべきだった。)
缶コーヒーが今日はやけに口に苦い。
細々と執筆している自負があった。ゆえに長江は、仮想の自分を、現実で知る人間が現れることなど全く想定していなかったのだ。
…安堂はあのあと、何事もなかったように長江の品出しを手伝い、仕事を終えると「お疲れ様でした」と挨拶をし、普段通り帰宅した。
(あの問いが、何も意図してないとかありえねぇ。カマをかけてんのは明白だ。)
苦笑が漏れた。
【LABIY】上での、サラサとの『マンボウ』に関するコメントのやり取りは、一般公開される作品コメントに付随されていた。需要の問題にもよるが、一般公開されている以上、それが誰かに読まれていても不思議ではない。
(だが、読みが甘い。…そもそも俺が『マンボウに憧れる女』を好きなわけがねぇ。…俺自身が、マンボウに憧れてんだから。)
スマホを取り出し、小説投稿サイト【LABIY】を開く。
「…サラサさん、今日もコメントくれたんだな。」
サラサが最初に読んでくれた作品は、若い弁護士と他人の妻の悲恋。
あれは、長江がセクハラ疑惑をかけられて、エリアマネージャーの職を失った後、何年も転々と転勤をさせられ、疲れきった心を癒すために書いた小説の二作目の作品。
一作目は自身の不遇をそのまま作品に投影させた。ゆえに書き進めること自体が苦痛だった。
だが、自分の内なる部分から沸き起こる書きたい衝動があまりにも熱く、そんな自分を慰めるために、長江は、次に書く作品はできるだけ惨く人間を裏切ってやろうと決めた。
そして書いたのが作品名『真昼の月に満ちる毒』だった。
作中で、他人の妻である女は、地位も名誉もある若い弁護士を翻弄し、心を蹂躙する。
小説のラストで女は、本当は無価値である自分自身を若い弁護士の目の前で死に至らしめることで、自身の価値を過大に顕示し、尚且つ人間に絶望させようとした。
どれほどの重く尊い情を他人に
ゆえに生きることは塵芥に等しいのではないかと思い至った結果のような作品だった。
「………」
『マンボウに憧れるとはどういう意味ですか?』
サラサの問いは、長江には「何故、死に憧れるのですか」と問われているのと同等の意味に捉えられた。
だからこそ、答えることができなかった。
しかし同時に、サラサという人物が、長江の暗い内面を知ろうとしてくれているのではないかと淡く期待した。
(それは「マンボウに憧れる女が好きなのか」、を問われることとは真逆のことだ。)
長江は缶コーヒーを机に置き、開きかけたスマホを懐に収めて深い息を吐き捨てた。
※ ※ ※
長江さん。
お疲れ様です。
今日は少し良いことがありました。
仕事中に指を切ってしまい、血が出てしまったのですが、
ほとんど話したこともないのに、一緒に働いている同僚の方が絆創膏をくれました。
お子さんがよく怪我をするからいつも持ち歩いているんだと、可愛いキャラクターの描いてある絆創膏で、
私の年では少し可愛すぎると思ったけど、
似合うねと言われて、恥ずかしかったのにすごく嬉しかったです。
人と話をするのは、やはり英気をもらえることなんだと、改めて感じました。
他愛もない話ですみません。
今日もお仕事お疲れ様でした。
サラサ
※ ※ ※
他愛もない理由で死ぬマンボウは、他愛もない出来事を楽しいと思えないのかもしれない。
「………」
帰宅後、誰もいない薄暗い部屋で一人、長江はサラサからのチャットを見ながら、泣きそうな顔で辛そうに笑った。
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