第19話


 仕事を終えた帰り。

 車の中でスマホを開いて更紗は絶句した。


「………そんな、」


 息が、上手く吸えなかった。


 更紗は、手にしたスマホを落とすまいと両手で抱えながらも、血の気が引き、治まらない身体の震えに大粒の涙をいくつも溢した。


「…どうして、」


 長江との個人チャットを行っていたプライベートグループが、解散されていたのだ。


 フォローしていたはずの長江の名前も、既に小説投稿サイト【LABIY】から削除されていた。


「…そんな、……そんなっ、」


 長江と更紗の繋がりは、【LABIY】上でしか成立していない。どちらかがその縁を切ってしまえば、追うこともできない。


 関係は呆気なく無に帰する。それはあまりにも脆く儚い。

 事実だからこそ、絶望は深かった。


「ああ、あああああっ、」


 震える更紗は、悲痛に唇を戦慄かせながら、声を上げて子供のようにいつまでも泣いた。


     ※ ※ ※


 翌日、目が腫れて前がよく見えなかった。


 そのため車での通勤を諦めて、公共機関を利用した。

 帽子を目深に被り、大きめのメガネをかけてマスクをして、電車に乗り込む。


 久しぶりの満員電車に揺られながら、更紗は気を緩めると流れそうになる涙を堪えて奥歯をキツく噛み締めていた。


 やがて最寄り駅に到着すると、同じ工場で働く見知った顔が前だけ見据えて改札口を目指すのが、視界の端を過る。

 それらを追ってノロノロ動く更紗は何度も人にぶつかられ、よろけながらも人の波に沿って懸命に歩いた。


「………」


 そうして更紗は人波に押し出されるように改札を抜けた。


 途端に強い日差しに晒される。

 見上げた空は嫌味なほどの快晴だった。

 雲一つなく、すっかり暑くなった風が更紗の横を吹き抜ける。


「……はあ、」


 マスクの中は熱気で蒸れて、身体全体に熱が籠っているようだった。


「…今日も、暑いなぁ。」


 どんなに心が辛くても、昨日と同じように今日はやってくる。


 うだるような暑さに、鞄からハンカチを取り出す。

 それは汗なのかなんなのか。

 更紗はメガネを外し、何度も何度も目元ばかりを拭った。


     ※ ※ ※


 スポットクーラーだけでは工場内の気温は下げることができない。開け放たれた窓からは、生ぬるい風が気休め程度に吹き付けるのみだ。


「隣の部署、今日、熱中症で二人倒れたらしいよ。」


 昼休憩、工場裏の木陰で更紗におにぎりを手渡しながら、栗林が珍しく眉根を寄せている。


「今日は特に暑いですからね。」


 更紗は曖昧に笑ってそう言った。


「そうね。…で?なんでアンタは今日、そんなに目を腫らしてるの?」


 思わぬ指摘に、更紗ははっと顔を上げた。

 途端に堪えきれずに瞳が潤んで涙が溢れる。

 次の瞬間には嗚咽が漏れる。


「…う、ううぅ、」

「………」


 心は、思いの外傷んで膿んでいるようだった。


 更紗は顔を覆ったまま、しゃくり上げて泣き続けた。栗林はそっと更紗を抱き締めて、優しく何度も背中を擦った。




 仕事を終え、更紗は栗林の家に招かれた。

 その小さなアパートは、築年数がかなり経過していて、二階に上がる鉄の階段は軋む。


「ただいまぁ」

「あ!お母さん!お帰りー!…ん?」


 玄関を開けると小学生くらいの女の子に迎えられ、女の子は更紗を見ると一瞬顔を強ばらせた。


「陽菜、ごめんけど、このお姉さんとお話があるから、ちょっと静かにしててね。」

「わかった!」

 

 母の言葉に、栗林によく似た女の子はすぐさま元気に答えると、向日葵のように笑った。


     ※ ※ ※


「それは、ちょっと人には理解できない形の恋だね。アタシには無理だわ。見たこともない話したこともない会ったこともない人に、そこまで想い入れ、できないかもしれないから。」

「……うん。」

「でも、人の感情に正解なんてないから、島田さんのその想いは偽りではないし、そんだけ傷ついているなら、…やっぱり好きなんだと思うよ。」

「…うん。」

「だからこそ、そんな形でのお別れとか、心に決着つかないよね。…酷い男だね。」


 酷い男。その言葉に、更紗は強い違和感を覚えた。顔を上げ、真っ直ぐ栗林を見る。


「確かに、弱い人だと思うけど、でも、それだけ純粋なんだと思う。…あの人の小説にあったように、純粋すぎて、この世は毒が満ちているように見えているのかもしれないから。」

 

 更紗は袖で涙を拭いながら、懸命に栗林に長江のことを説明する。


 説明しながら、改めて想いを言葉にすることで、更紗は不思議と頭がクリアになっていくのを感じていた。


 それは、あやふやだった「長江」の存在が、肉付けされて形作られていくようでもあった。


「…そうだわ。」

 

 更紗は不意に小さく呟いた。

 涙は既に枯れている。


「この世は、毒だけが満ちているわけじゃないって、誰かが長江さんに伝えないと、たぶん、…長江さんはマンボウに憧れたままだ。」

「………?」


 更紗の言葉を、栗林は理解できなかった。

 それでも栗林は薄く微笑んで、確かに頷いてくれた。


「よくわからないけど、アンタは、その長江さんのことが理解できてるんだね。実際に会ってなくても、そんなに深く心は繋がれるんだ。」


 感心したような栗林の言葉に、更紗は驚き目を丸め、刹那顔を赤らめて俯いた。

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