第20話


 繋がりを断たれた更紗が、長江にコンタクトを取ることはもはや不可能だった。


 それでも、一欠片の望みを捨てきれない更紗は、毎日、小説投稿サイト【LABIY】を開く。新着の小説をできる限りチェックするためだ。


 しかし『長江洸』が本名なのかペンネームなのかもわからない更紗には、その名以外で投稿されれば、長江を発見しようもない。

 

(無意味かもしれない。無駄かもしれない。そもそもこんなこと、長江さんにはただの迷惑かもしれない。)


 だが、更紗の心が長江を諦めようとしない。

 更紗は唇を噛み締めて、今日も何度もスマホを確認する。


     ※ ※ ※


 11月。

 世間はすっかり『Jackal』ボーカル斗真とミュージカル女優のスキャンダルに飽きていた。

 それでも『Jackal』自体は3ヶ月前に活動休止を宣言して、もはやメディアに露出することはない。


 意識していなくても耳にしていた【道草】も、聞く機会がなくなった。


 全ては、世間から消え去り風化していったようでもある。



「…アンタ、またそのサイト見てるの?」

 

 昼休憩。すっかり寒くなった工場の裏で、自炊した小さな弁当を食べながらスマホを弄る更紗へ、鼻で笑いながら栗林が言う。


 栗林は当然のように更紗の隣に座り、具沢山のおむすびを2つ、鞄から取り出した。


「アンタ、試験来月でしょ?そんなの見るくらいなら勉強しなよ。」

「家ではしてますよ。…メリハリつけてますから大丈夫です。」

「よく言う。この間の模試、とんでもない点数だったんでしょ?」

「……うっ、」

「そんなに器用じゃないんだからさ、いい加減勉強に集中しなよ。いつまでも長江さん、追わないでさ。」


 そうですね、と笑う更紗は結局スマホから一度も目を離さなかった。


「アンタのそれ、軽いストーカーなんじゃないの?」


 呆れて笑いながら栗林は、更紗の弁当から少し焦げた卵焼きを一つ摘まむ。


 それを見て、更紗はクスリと笑った。


「…ホント、そうですね。」



 更紗には、心に決めていることがある。

 登録販売者の試験に合格した暁には、小説投稿サイト【LABIY】に一つ、童話を投稿するということ。


 勉強の合間に少しずつルーズリーフに書き留めた物語だった。

 しかしそれは、何度読み返してみてもあまりに拙い。


 それでもきっと投稿する。

 これは、更紗にとって最後の賭けだった。


     ※ ※ ※


   『泣き虫のマンボウ』


 ここではない世界。

 ここではない海の中。


 とても汚くヨゴレた海を泳ぐマンボウは、濁った水で前が見えないから、目を閉じたまま、怖くて怖くて毎日泣いていました。


 お日様の光も届かないほど汚い海は目に染みて痛いし、涙もすぐに汚れてしまうのです。

 だから、マンボウは困って困ってまた泣きました。


「おやおやマンボウさん、どうしたの?」


 海に入ったばかりの小さなウミガメが、そんな困っているマンボウを見つけて尋ねました。


「前が見えないし、海の水が目に染みて痛いから、僕はとっても怖いんだ。」


 とマンボウは言いました。


「え?本当?」


 と小さなウミガメは不思議そうに言いました。そして更にウミガメは言います。


「オイラはこの海しか知らないから、ここが汚いなんてちっともわからなかったよ。マンボウさんは、とても綺麗な海を知っているんだね。羨ましいなぁ。」


 ウミガメの言葉に、マンボウはビックリして、思わず目を大きく見開きました。


 すると、今までよく見えなかった海の中、マンボウの目の前で、小さなウミガメが小さな瞳をクリクリ輝かせていたので、マンボウはまたまたビックリしてしまいました。


「こんなに汚いのに、汚いかどうかわからないなんて、君は本当に何も知らないんだね!」


 マンボウの声は呆れているようでもあり、少しバカにしているようでもありました。

 でも、小さなウミガメには、そんなマンボウの心の中まではわかりません。


「そうだよ。オイラは何にも知らない。だから、この海を泳げるのは楽しいし、マンボウさんが苦しんでいるのは可哀想だなと思うよ。」

「僕は可哀想?」


 マンボウは少しムッとして言いました。


「僕は可哀想じゃないよ。」

「え?違うの?だって目を閉じて泳いでいたら、オイラとも出会えなかったんだよ?オイラはマンボウさんと出会って面白いなと思えたから、マンボウさんだってオイラと出会えて面白いなって思ってほしいもの。けど、目を閉じてたら、それも無理だろ?」


 そして小さなウミガメはニッコリ笑って言いました。


「マンボウさん、あなたが見てきた綺麗な海は、どこにあるの?オイラ、そこに行ってみたいな。」

「いいけど、僕は前がよく見えないから、君を連れていけないかもしれないよ。」

「構わないよ。そこがゴールじゃなくてもさ。マンボウさんが元気になるなら、ここじゃない何処かを目指して進んでみるのもいいんじゃないかな?」


 そして小さなウミガメは、マンボウの背中を押しながら、前へ前へと泳いで進みます。


 汚い海は、どこまで汚いのか、誰にもわかりません。


 ですが、小さなウミガメは、マンボウと一緒に泳いでいけるこの海が、本当はとっても好きなんだよと思っていました。



             おわり


     ※ ※ ※


 12月に行われた登録販売者試験の結果が2月14日に東京都のホームページに掲載された。


 その翌日の15日。

 小説投稿サイト【LABIY】に、とても短い童話が、サラサ名義で投稿された。

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