第10話


 新入社員の研修期間が終わり、現場に入っていた若い女性社員二人は本社への異動が決まった、と朝礼で連絡があった。


 恰幅のよい部長の横に立つ若い二人は甲斐甲斐しく頭を下げ、棒読みで「お世話になりました」と告げる。

「お疲れ様でした。」と、一般工員や期間工たちも口先の労いと疎らな拍手を送った。


 それでも彼女たちは工員の列を前にして顎を上げ、満足げに笑っていた。


「………」


 列の後方で、例に漏れず手を叩く更紗に対し、彼女たちは一瞥もくれなかった。彼女たちにとって、更紗は路傍の石よりも価値のない存在。嫌がらせをしたことさえも、覚えていないのだろう。


(これがヒエラルキーか。)


 彼女たちが流した、課長である堤下との不倫を匂わせる噂は辛うじて風化した。だがその一件以来、更紗への工員たちの風当たりが少しばかり強くなっていたのも事実。

 今では、積極的に話しかけられることもなくなった。挨拶も返ってくることの方が少なくなった。


 それでも、更紗は生活のために仕事を辞めるわけにはいかなかった。


 出勤から退勤まで、誰とも一言も話さずに1日を終えることもままある日々を、更紗はただ辛抱強く過ごしている。


 仕事をするのは、生きるためだからと自らに言い聞かせながら。


『自分もそうです。

 仕事は生きるためには必須です。

 良くも悪くも。

 だから人間らしく生きるために、

 趣味は大事になってくると思っています。』


 仕事で辛くなる度に、更紗は長江の言葉を反芻しては、心の平穏を取り戻していた。


     ※ ※ ※


 昼休憩、更紗はいつものように車内で昼食のサンドイッチを噛りながら、小説投稿サイト【LABIY】内にあるコミュニティページを開いた。


 そのWebページは、誰でも自由にコミュニティグループを作成することができた。作成されたグループの種類は豊富で、自身の作品を宣伝するためのものや意見交換を主としたサークルなどの閲覧可能な公開グループに加え、個人チャットを主体とするプライベートグループまでもが存在する。


「あ、長江さんから返信がある!」

 

 更紗のプライベートグループには、たった一つのアイコンが登録されている。

 どこかの海を丸く切り取ったそれは、長江のアイコンだった。



 …以前、更紗はずっと気になっていたことを、何回目かの長江作品の感想コメントの末尾に書き添えたことがある。


『前に、裏設定、なのかもしれませんが、登場人物について、

《その女はマンボウに憧れているのだろうと想定しながら書いた》、と書かれておられましたが、

 マンボウに憧れるとは、どういう意味ですか?』


 すると長江は予想だにしない返信コメントを寄越してきた。


『あまり人に聞かれたくない部分ですので、

 日を改めて。』


「………!」


 真意はわからないが、何かしらのタブーに触れたのだろうかと、スマホを持つ手が震えた。

 更紗の胸はざわつき、その日は怖くてスマホを開けなかった。


 しかしその翌日、スマホに【LABIY】からのお知らせ通知が来ていて驚いた。おずおずとサイトを開くと、プライベートグループへの招待が届いていた。


「…嘘!」


 それは長江からの打診だった。


 慌てて更紗はグループへ参加すると、チャットにはコメントが記されていた。


『突然の招待で申し訳ありません。

 このようなやり取りを打診することは

 本来ならば避けるべきだと思いましたが、


 サラサ様に、

 今後もより良い作品作りへの助言を賜りたく

 グループを作成致しました。

 

 自分の我儘をお許しいただいた上で

 ご理解いただけますなら幸いです。』


 その日から、長江と更紗のチャットは三日に一回のペースで続いている。


 最初は作品についての意見交換だったが、個人チャットという、誰にも見られないプライベート空間が更紗のガードを緩くしたのか、今では時折、仕事の相談なども持ちかけていた。


「…でも、深く考えてはダメだよね。」


 しかし、未だに肝心の『マンボウに憧れるとはどういう意味か』の問いに対する返答には至っていない。

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