第9話



 長江から初めてコメントを貰った日から1ヶ月ほど経ったとある休日。


 更紗は、事前に予約も入れずに結婚相談所『ハッピーウエディング』を訪れ、担当の榊原節子を驚かせた。


「まあ島田さん、来訪時にはご予約をいただかないと、困りますよ。」

「すみません。…その、…退会したくて、なので電話では失礼かと思いまして、」

「………。あら、そうなの。それは残念ね」


 あからさまに態度を硬化させた節子に、更紗は内心で嘆息を漏らしながらも愛想で笑って頭を下げた。


 結局一度も見合いの相手を紹介されることもなく、4ヶ月が経過している。それでも、頭を下げて解約をしなくてはならないというのは些か理不尽ではある。

 

「では島田さん、こちらの書類にサインをいただける?」

「…はい。」


 不平不満を飲み込んで、更紗はペンと紙を受け取った。そして先払いの登録料は返金できない旨の記された書類にサインをする。


 これでよかったと改めて実感しながらペンを置き、さあ帰ろうと踵を返して扉に手を掛けると、


「島田さん。これは貴女のために言うのだけれど、35歳にもなって、夢を見させてくれる男性を求めても、現れるわけないわよ。きちんと地に足を据えて、現実を見ないと。」


 鼻で笑いながら、節子は更紗の背に告げた。

 ドアノブを掴んだ手に力が籠る。


「………」


 そうですね、と振り返って微笑めばよかったのかもしれない。だが、その言葉を口にすることで、自分の理想を曲げることはどうしてもできなかった。


「………っ」

 

 今、更紗はその「地に足を据えない」感情と、向き合おうとしている。

 だからこそ、退会を申し出たのだ。


 結局振り向くこともなく扉を開けた。




「…はあ、終わった。」


 結婚相談所の入った雑居ビルの階段を一歩ずつ下りていき、通りに面した出口へと足を踏み出した瞬間、肩の荷が下りた思いがした。


 頬をなぶる風がほんのりと暖かい。


「…ああ、スッキリしたぁ。」

 

 そして更紗は小さく微笑んだ。


 不器用な更紗は、試しに、という軽い気持ちで人と向き合うことができなかった。

 

 自分の感情の矛先は、常に一つしか目指せない。ここ1ヶ月、考え抜いた結論だった。


「…こんな出会い、人に話しても笑われるだけだしね。」


 先日、意を決して再び長江の作品にコメントを書いた。


 その作品は、一番最初に読んだ、若い弁護士と既婚女性の悲恋を描いた物語だった。


     ※ ※ ※


 長江洸様


 コメント失礼します。

 とても興味深く読ませていただきました。

 

 本当は、ずいぶん前に読んだんですけど、どうしても感想をお伝えしたくて、今、コメントを書かせてもらってます。


 私はこの作品で、長江さんを知りました。

 

 どうしてこんなに切ない終わり方を選ばれたんだろうとずっと思っていました。


 この『妻』は、人を、信じられなくなったのかなと、思ったりもしました。

 そしてそれを書かれた長江さんにも通じる思いなのかなと、勝手に解釈したりもしました。

 すみません。


 でも、今でもとても心に残る作品で、何度も読み返しています。


 私はこの作品もとても好きです。


 これからも、長江さんの作品を楽しみにしています。


               サラサ


     ※ ※ ※


(…若くもないのに、ホント、何やってるんだろう。結婚相談所に登録してた方が、…『結婚』は近いのにね。)


 心に小さく芽吹き始めた『熱』。

 自覚してしまったからには、もはや無視はできなかった。


「………」


 その存在と向き合いたくて、更紗は結婚相談所に登録し続けるという堅実な出会いを捨てた。


(ホント、自分でも馬鹿げているって思う。呆れるよ。)


「……ふふ、」


 空を見上げると、厚い雲の合間から、太陽光が降り注ぎ、遠い街を照らしていた。

 あれは天使の梯子と言うのだと、更紗はぼんやり思い出した。


     ※ ※ ※


 サラサ様


 コメント有り難うございます。


 自分もこの作品には少しばかり、

 思い入れがあります。


 男の妻を描く際、

 きっとこの女はマンボウに憧れているのだろうと想定しながら、

 人物像を作り上げていった経緯があるので。



 これからも応援宜しくお願い致します。


              長江洸

 

 

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