第8話


 今の長江にとって、小説を書くことは単なる息抜きだった。

 

 確かに学生の頃は、作家を目指して我武者羅に作品を書きなぐりもした。若さゆえに勢いがあり、文章が尖って読みにくくはあったが、同時に文面は希望に満ちていた。


(…あんなに必死だったのに。夢なんてのは所詮醒めるから夢中になれるってことか。)


 しかし大学を卒業して現会社に就職し、仕事に忙殺されるようになると、執筆にエネルギーを配分する余裕がなくなっていった。そして気がつけば20年近く、書くことを辞めていた。


(もしあの時、少しでも仕事以外に世界を持っていたら、…もしかしたら、)


 ーー5年前、意欲のない部下への長江の強めな対応を巡り、長江は本社で査問委員会にかけられた。


『いえ、身に覚えがありません。自分はそんな指示は出してないし、ましてや、…』

『長江、今重要なのはお前のハラスメントを告発して女性社員が一人辞めた事実だけだ。…もはやお前が白か黒かなんて関係ないんだよ。』

『しかし自分は、』

『軽率だったな、長江。俺たち男はな、女に声を上げられたら、その時点で九分九厘負けなんだよ。男女平等を盾に取られてな。』

『……しかし、』


 どんなに訴えても、結局長江にかけられた嫌疑は晴らせなかった。そして長江の潔白は証明されないまま、エリアマネージャーの職を下ろされた。


 出世街道から外れた長江は、全国に点在する小さなドラッグストアへと転々と転勤させられた。


 転勤先はどこも売上が上がらない落ち目の店舗ばかり。しかも赴任した長江が軌道修正して前年比105%前後まで利益を回復させると、必ず他店への異動を命じられた。

 

 会社が、不祥事を起こした長江を辞めさせる方向へと導こうとしているのは明白だった。


 そしてほぼ毎年、全国あちらこちらへと転勤させられる日々を送った長江は、今月に入り、広島の片田舎のドラッグストアへと着任した。


(何もかもくだらねぇ。…なのに何で、…生きていなくちゃなんねぇんだろう。)


 度重なる転勤に疲れ始めた2年前、長江はふと思い立ち、仕事の合間に一つの短編小説を書き上げた。


 それは、身に覚えのないセクハラ容疑をかけられて社会的制裁を受け、最後には自殺してしまう男の末路を描いた物語。


 まさに自身の成れの果てだった。


 あとにも先にも、実体験を作品に反映させたのはその一度きり。


(ホント、人間に関わるとロクなことにならねぇ。特に女は、…最悪だ。)


 そして長江は独身のまま、来月40歳の誕生日を迎えようとしている。


     ※ ※ ※


 その日長江は、閉店作業を終えて白衣を脱ぎ、事務所で缶コーヒーを口にしながら何気なくスマホを手にした。


 そしていつものように小説投稿サイト【LABIY】のマイページを開く。


「………ん?」


 ーー自分の小説は、自分でも胸焼けを起こすほどにジメジメと暗く重い。

 腹の中に留めておけないほど鬱積した淀を吐き出しているのだから、致し方ないと頭の片隅ではわかっていた。

 

 それでも、やはり閲覧数が伸び悩むと、自身の小説への傾向と対策を模索するようになってくる。


「………マジかぁ。」


 以前書いた作品の中に、読者受けを狙い、意識して希望を追求した短編小説がある。


 『溶けていく時間』というタイトルの、事故により記憶が重ならなくなった男の一生を描いた物語。 

 その作品の中で、毎日男に忘れられてしまう妻は、ラスト、男に希望を託してその生涯を終える。


 それは、心のどこかで長江が望んでいる愛の形であるようにも見えた。


「………」


 自分がどんな状況であったとしても、深い海のように受け入れてくれる女の愛。受け入れられたと実感できたからこそ、男は毎日夕方には妻を愛するようになるのではないか。


(だがこれは単なる妄想だ。そもそもそんな深い愛を俺は知らない。けど、…そうか。)


 理解できないと思いながら描く物語は、油の切れた機械のようにぎこちなく軋んで苦痛を伴う。それでも長江は、この物語のラストへたどり着きたいという強い気持ちだけを持って書き上げた。


「……そうか。…そうかぁ。」


 その作品に、コメントがついていた。

 読者にコメントを貰うことは初めてではなかったが、何故かその文面は、ひび割れ乾いた大地に落ちた一滴の雨粒のように、じんわりと長江の胸に沁みた。


「……ははは、そうか。…そうかぁ。」


 長江は缶コーヒーを置いて天井を仰ぎ、小さく微笑んだ。




 

 

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