第16話


 更紗の決意表明のコメントに対する長江からの返信がない。


 あれから一週間が経とうとしている。


(こんなに返信がないのは、初めてだ。)


 気に触るコメントだったのかと、何度も読み返すが、自分では文章の違和感が見つけられなかった。


 日々、蓄積するように不安が募る中、ある日帰宅すると、登録販売者の資格を取得するための通信教育のテキストが届いていた。


「………」


 自分はこれを頑張ると決めた。

 だが、心のどこかで、いつか長江に出会えた時に、胸を張れる自分であるための人生の一歩だとも考えていた。


(そんな理由で資格を目指すことが透けて見えたのかな。そんな理由で前を向こうとする私は、浅はかだと思ったのかな。)


 男ありきの自分。それは否定したい。

 長江ありきの自分。それは否定できない。


 長江という人物が、例え女性だったとしても、相当年齢が上だったとしても、既婚者であったとしても、ある種の尊敬を抱いている。そして同時に長江の弱さも知っている。


 だからこそ、長江との対峙を目指したいと強く思った。


(そう。こんな関係は、たぶん普通じゃない。理解もされない。だから、私の動機は人には理解できない。)


 更紗はテキストが入った箱を紐解き、大量のテキストと問題集、それらを説明する冊子を手にした。


「わあ…。手にすると重い。」


 これを資格試験のある12月までに覚えていかなくてはいけない。


「………」


 テキストを赤い丸テーブルの上に置き直して、再び傍らのスマホを手に取る。


 やはり、長江からの返信はない。


(でも、…やるしかない。やるって決めたから。)


 更紗は立ち上がるとスマホを充電器に差し、わざと見えない位置に置いた。そのままテーブルまで戻り、背を正してテキストを開いた。


     ※ ※ ※


 長江からの連絡が途絶えて1ヶ月。


 更紗は少し痩せた。


 気にしないと何度も心に言い聞かせても、心は毎日返信を期待する。

 愚かだと思いながらも、食事が喉を通らなくなっていたのだ。


 そんなある日の休日。

 

 勉強の合間、疲れた脳を癒そうと、甘いクッキーとアイスカフェオレを用意して、ふと、テレビを点けた。


 平日の昼間。やっている番組はワイドショーかドラマの再放送しかない。


 なんとなくチャンネルを変えながら、不意にその手が止まる。


「……え、」


『「Jackal」のボーカル斗真の不倫発覚!お相手は一回り年上のミュージカル女優、厚木マリナ!』

『やはり彼らの楽曲【道草】は実体験を元に描かれていたんですね、』

『不倫の曲を公然と歌い続ける心理はいかばかりか。彼らは前々から不倫を肯定していたとしか捉えられませんね。』

『社会通念が欠落していると言わざるを得ない。人として、いかがなものか。』


 番組の司会者とコメンテーターは、半笑いでそんなコメントを繰り返した。誰もが嬉々として善を唱え、『Jackal』のボーカル斗真を責め、彼らの歌を責める。


「…そんなっ」


 更紗は痛む胸を押さえて眉根を寄せた。

 扱き下ろされる【道草】が、諸悪の権化と成り下がりつつある事実に恐怖を覚えた。


 更紗は特段『Jackal』が好きなわけではない。ただ、彼らの歌う【道草】はとても気に入っていた。だからこそ、焦燥感に震える程、心が傷ついていった。


「…どうして、…どうして、」


 不倫は確かに社会的常識から外れた行為かもしれない。だが、だからといって同時に彼らの創作そのものをも貶す理由にはならないはずだ。


「…どうして、」


 一般的な『普通』からはみ出したモノへの処罰を目の当たりにするようだった。


 魔女狩りに似ている。

 『正義』の名の元に、全員が同じ方向を向いているようにしか見えない。

 

(…長江さん、大丈夫かな、)


 不安の矛先は、すぐに長江に向いた。

 だからこそ、胸がこんなに痛い。苦しい。


 更紗は吐き気を覚えてトイレに駆け込み、昼に食べたものを全て吐き出した。


 身体の震えが止まらない。


 長江が【道草】の作詞を手掛けたkoだという確信はない。本人からもそんな話は聞いていない。だが、更紗の今感じている恐怖は何故か長江に直結した。


「連絡、…連絡しなくちゃ、」


     ※ ※ ※


 長江さん、お疲れ様です。


 お元気でおられますか?

 大丈夫ですか?


 よかったら、お返事ください。



            サラサ


     ※ ※ ※


「助けて、助けて、」


 長江は今、小説を投稿していない。


 この個人チャットでの連絡がなければ、更紗には、長江が生きているのか死んでいるのかさえもわからなかった。


 不安だけが募っていく。


「長江さんっ」


 更紗はスマホを抱いて、ただ虚しい涙を流すより他に術がなかった。

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