第15話


「私、『道草』の歌詞がとても好きなんです。」


 午後五時。

 事務所で日報を打っていた長江の背中に向けて、仕事を終えた安堂が掛けた言葉に長江の手が止まる。


 振り返ると、安堂はその美しい容姿そのままの艶やかな笑みをたたえていた。この女性は自身の美を理解しているのだなと、長江は何故か軽く感心した。


 そして同時に、自分にではなく、『道草』の作詞を手掛けた「ko」に関心があるのだろうと解釈した。


「そうなんですね。…でも僕は最近の歌には疎くて、申し訳ない。」

「嘘ばかり。…最近、長江さんの作品にコメントが増えたのは、ラジオで『Jackal』のボーカル斗真君が歌詞を『ko』君が手掛けたって話してから、ですよね?」

「………。いや、なんのことかさっぱり。」

「よくコメント書いてた『藍泉』さんも『魔入』さんも『サラサ』さんも、あのラジオの後からコメントを寄せてますよね?」

「………」

「でも私は違う。私はもっと前から、長江さんを知っていました。だから、すぐに『道草』の歌詞を手掛けたのは長江さんだって気づいたし、たまたま帰省したこの街で、このお店で、貴方の名前を見たときは、…運命だと思いました。」


 長江の顔から笑みが消え去り、長江は無表情のまま、恍惚と微笑んでいる安堂をじっと見据えた。


 しばらく見つめ合い、しかし長江はその目を反らすと、再びパソコンへと向き合った。


「長江さん、」

「人違いじゃないですか?…僕は安堂さんが何の話をしているのかわかりません。」


 すると不意に、安堂は長江の背中にそっと触れた。


「…!」


 長江の身体がびくりと震え、慌てて振り返り立ち上がる。


「何をっ」

「……すみません、店長の背中に髪の毛が、」


 確かに安堂の手には髪の毛が一本摘ままれている。


「………っ」


 長江は過剰に反応した自身への羞恥心から顔を赤らめ、急いで座り直してパソコン画面へ向かった。


 背後で、安堂がクスクスと笑った気がした。


 手が震えていることは、悟られてはいけないと、長江は強く奥歯を噛み締めた。


     ※ ※ ※


 五年前にセクハラ疑惑を持たれて以来、長江は女性従業員に対して過剰なほど距離を取った。女性従業員だけではない。電車に乗るときは両手でつり革を持つのが癖になり、買い物に出掛けて商品を探す時も男性の店員を探して声をかけるようになっていた。


(…人手不足だからって、安易に決めるべきではなかったのか?)


 私情と仕事の効率化を天秤にかければ、仕事が優先されるのは長江の立場上当然だ。しかし、相手が私情を持ち込んで仕事に向かうのならば、対処を考えなくてはならない。


(だが、実際仕事はよくできる。…他のパートの年配二人と比べても、差は歴然だ。)


 ならば誤魔化し通すしかない。


 閉店後、ため息交じりに白衣を脱ぎ、白衣をロッカーに収めるためロッカーの扉を開けた。

 すると一本の栄養ドリンク剤がそこには置いてあり、可愛らしい付箋紙に『お疲れ様です。出すぎた真似をしてすみませんでした。』と書かれていた。


 それを手に取り、長江は自分の矮小さを恥じた。


「俺は、…本当に人を見る目がない。」


     ※ ※ ※


 家に帰り、スマホを開くと、サラサからの返信があった。


 それを読みながら、前を向こうとするサラサに感心しつつ、登録販売者を目指すことに微笑みながらも、心のどこかで先程の安堂の言葉が引っ掛かっていた。


『「サラサ」さんも、あのラジオの後からコメントを寄せてますよね?』


 薄々気がついていた。


 あのラジオ以降増えたコメントの中に、サラサはいた。それでもサラサの寄せてくれるコメントに興味を惹かれ、今では個人チャットを続けている。


 だが、サラサもまた、ロックバンド『Jackal』が歌う『道草』に興味があったにすぎないのかもしれない。


(…所詮、ネットだしな。)


 長江はスマホを閉じると、コンビニで買ってきた弁当を机に置いたまま、ビールを開ける。


 テレビをつけると、お笑い芸人たちが大笑いしながらクイズに答えていた。


 それをただぼんやり眺めていただけの長江の頬に、涙が一滴流れた。

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