第17話


 『Jackal』のボーカル、斗真の不倫報道は加熱していき、ネット上では【道草】の批判が相次いだ。

 

 更紗は毎日【LABIY】の個人チャットを確認するが、もちろん返信はない。それでも1日に何度もサイトを開いた。


 空虚な心を埋めるように、勉強に打ち込むが、今までの生活では使わない用語が犇めくテキストの内容は、容易には頭に入ってこない。心がざわめく現状ではなおのこと、集中することは困難だった。


「………」


 仕事を終えては机に向かい、しかし机に俯せたまま、何度も朝を迎えるだけの日々が続く。


「………っ」


 気晴らしにテレビを点ける度に不倫報道を目の当たりにして慌ててテレビを消す。


「………う、ううっ、」


 八方塞がりだった。


 それでも、1日に一つの単語しか覚えられなかったとしても、勉強は続けようと心ばかりが焦る。


 更紗は、疲弊しきっていた。


     ※ ※ ※


 二週間ほど経ったある日。


 昼休憩、車まで昼食のために戻る気力さえも失っていた更紗は、工場裏の喫煙スペースの横で、スティックパンを一つ齧っていた。


「島田さん、…それがお昼なの?」


 不意にかけられた声に、身体がビクンと震えた。慌てて顔を上げると、そこに立っていたのは、以前、怪我をしたときに絆創膏をくれた女性。


「…あ、…はい。」


 更紗は気恥ずかしそうにパンをそっと自身の後ろに隠した。


「何か最近、痩せたように見えるけど、ダイエットしてるの?」

「…いえ、そういうわけじゃないんですけど、」

「えー、ならちゃんと食べないと。40才過ぎた頃に後悔するよ。お肌とか体調に如実に現れるんだから。」


 自分と同じ歳くらいのその女性は、おむすびを差し出しながら少し怒ったように言う。おずおずとそれを受け取りながら、更紗は曖昧に笑った。


「ありがとうございます。頂きます。」

「気にしないで。こっちこそ、この間、絆創膏とお菓子ありがとうね。」

「いえ、私、あの時すごく嬉しかったし、これも、このおむすびも、すごく嬉しいです。」

「そう?ならよかった。子供の朝ごはん用のおむすびだったんだけどさ、食べなかったから持ってきたの。…でも正直、こんなには食べられないしね。あはは、」


 女性は笑いながら小さな鞄の中から更におむすびを4つ取り出し更紗に見せた。


「それは、…さすがに作りすぎでは?」

「でしょ!そうなのよ。まだクセでさ、旦那の分も作っちゃうのよね。」

「……え、」

「アタシ、この間、離婚したの。だからこっちの工場に異動になったんだけどね。」

「あ、そうなんですか。…あ、その、なんかすみません、」

「あはは、何で謝るの?気にしないでよ、アタシが勝手に話したんだし。だからさ、おむすび、食べて?」

「はい。ありがとうございます。」


 更紗よりも遥かに逞しく、そして明るく笑うこの女性は、シングルマザーだった。


     ※ ※ ※


 女性は名前を栗林幹子といった。


「まあよくある話だけどさ。お互い共働きなのに、家事も子育てもアタシ頼りになっててさ、まさに家事奴隷!てな毎日が、ちょっとずつちょっとずつ辛くなってて、そうすると余裕がなくなっていってね、旦那と毎日、喧嘩してたの。」

「……ええ、それは、…しんどいですね。」

「そうなの。でもね、そうするとね、子供が凄く不安定になるのよ。」

「…そんな、」

「ねー。アタシ、酷い女でしょ。」

「そんなこと!…そんなことないです、」

「いいのいいの。アタシはアタシである前に、お母さんであって妻でないといけないんだから、我慢しなきゃって、…頑張ったんだけどね。でもやっぱり辛くて辛くて、どうしようもなくなった時に、【道草】って曲を聞いたの。…あ、知ってる?【道草】」

「!…はい。…もちろん、」

「あれって、若い男と中年女性の恋愛模様じゃない?…でも、なんだかね、真っ直ぐだけが人生じゃないって訴えてる気がして、あれを聞くたびに、なんだか頑張ることがバカらしくなっちゃってさ、」

「……はい。…わかります。」

「だから、もう頑張れないから別れてくださいって旦那に言ったの。そしたら、頑張れないなら、この先はないねって、あっさり了承されちゃった。…馬鹿馬鹿しいでしょ?」

「…いえ。……。…ぅ、」

「やだ、泣かないで。笑い話なんだから。」


 俯き、小さく震えて泣く更紗の肩を、笑いながら栗林はそっと抱き締めた。

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