第23話
新しい仕事を覚えることに必死になるあまり、気がつけば、『サンカヨウ蒲田店』に採用されて早1ヶ月が過ぎようとしている。
仕事が終われば、店内の商品の配置を覚えるために店内を歩き回り、家に帰れば、登録販売者の資格取得用テキストを見直した。
ただ業務に向き合うだけの日々。
更紗はとにかく心も頭もいっぱいいっぱいで、この1ヶ月の出来事を振り返ってもなにも思い出せなかった。
(覚えることが多すぎて頭がパンクしそうだわ。でも不思議。凄く楽しい。)
それでも更紗は毎日笑って過ごしている。
そんなある日の仕事終わり。
いつものように店内の商品棚の配置を確認するように歩き回りながら、
「……え、」
更紗はふと、壁に貼ってある在籍中の登録販売者名が記された掲示物に目を止める。
「……え!」
そして、息が止まるほどに驚いた。
「…嘘でしょ!?」
長江店長の名前が『長江洸』だと、この時初めて更紗は知ったのだ。
※ ※ ※
ほとんど遁走に近いくらいの勢いで、慌てて家に帰った。玄関を開けて、ドアを閉めると、足の力が抜けたようにその場に崩れる。
「……うそ、」
自分の鈍さに軽い目眩を覚えた。
面接時に、ナガエと聞いていた名字が『長江』だったことに更紗は内心とても喜んだ。
その時は、ほとんどミーハー気分で舞い上がってしまい、面接内容等々、よく覚えていない。だからこそ採用が決まった時は心の底から歓喜した。
そして勤め始めると、わからないことだらけの自分をフォローしてくれる長江店長を純粋に尊敬し、古参の従業員が彼を悪く言えば反射的に噛みついた。
しかし、それ以上の感情など、抱くことはないつもりだった。
(なのに、…まさか。…でも、単に同姓同名なのかもしれない。あの小説を書いていた『長江』さんは、そもそもペンネームかもしれないし。)
胸が早鐘のように高鳴り痛みすら覚える。
激しく血が巡り、顔が赤らんで心が焦る。
(長江店長が『長江』って名前だったことでさえも浮かれてしまって、…私、未だに店長の顔をまともに見れてないのにっ、)
長江の顔を思い出そうにもはっきりとは思い出せない。きっと今後も思い出せないのではないかと、胸を強く手で抑えながら、更紗は自嘲気味に笑う。
(…せめて、店長に失望されないように頑張らないと。)
更紗はキッと前を向き、立ち上がると靴を脱ぎ捨て、暗い部屋の電気を点けた。
※ ※ ※
「島田さん、それ、違いますよ。」
「え!あ!ホントだ!すみません!」
更紗は仕事を頑張ろうと張り切るあまり、早速ミスをしでかした。商品をうっかり違う陳列棚に並べていたのだ。
いつの間にか背後にいた長江に指摘され、顔を真っ赤にしながら慌てて並べていた商品を台車に戻す。
「慌てなくても大丈夫ですよ。そういう失敗は僕もたまにやりますから。」
そんなわけがない。と心の中で軽くツッコミながら更紗は「すみません」と小さく謝り作業を続けた。
その日の昼休憩。事務所の奥にあるロッカールーム内のテーブルで、更紗の他に二人の従業員が各々食事をしていた。
更紗は彼女たちより少し離れた位置で自前の弁当を開く。二人の従業員のうち一人は、先日店長擁護のために更紗が噛みついてしまった20代の女性従業員、金城。
あの日以来、更紗は金城に少し気まずい思いを抱いている。
「あ、島田さんて、自炊してるんだ。」
しかし金城はあまり意に介することなく話しかけてくれる。根は気さくな人間なのだろう。
「はい。…あまり得意ではないんですけど、節約のために。」
「そっか。島田さんて独り身なんだよね。…いいなぁ」
更紗より若い金城は既婚者で小さな子供が二人いる。
「ウチも独身に戻りたーい。」
「…でも島田さん、独身ならここだけの勤務じゃ、生活苦しいんじゃないの?」
もう一人の従業員で年配の伊達が、穏やかな顔を少し曇らせて更紗を見やる。
更紗は困ったように微笑んだ。
「そうですね。」
「えー、そっか。でもうちはダブルワーク禁止だもんねぇ。それは辛いねぇ。」
金城も若干の同情を滲ませながら言う。しかしその舌の根も乾かないうちに、金城はとんでもないことを口にした。
「だったら店長と結婚すれば?あの人、あの年で独身らしいよ。」
「……。はい?」
「だから、長江と結婚すれば?っ言ったの」
「え?…えー!な、な、な、なに言ってんですか!や、や、やめてくださいよ!」
あからさまに真っ赤になって動揺した更紗は勢いよく立ち上がり、声を荒げた。座っていたパイプ椅子が派手に倒れてガチャンと響く。
すると、
「どうかされましたか!」
ロッカールームのドアが勢いよく開き、長江が少し慌てた様子で顔を出した。
「………!」
この時、初めて更紗は真正面から長江の顔を見た。
「あわわわっ」
目が合い、狼狽した更紗はそのまま後退り、倒れたパイプ椅子に足をとられて尻餅をついてしまった。
「大丈夫ですか!」
即座に長江が駆け寄る。
「こ、来ないで!」
しかし意図せず、真っ赤な更紗は声の限り叫んでいた。
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