彷徨う海亀、死にたがりのマンボウ
みーなつむたり
第1話
その男は、マンボウに憧れていた。
「マンボウは、太陽が眩しくて死ぬらしい」
「サメに襲われるかもしれないと思い込んでも死ぬらしい」
「皮膚に海水が滲みても死ぬらしい」
「仲間が、目の前で食われたショックでも死ぬらしい」
列挙された、作り話のようなマンボウの死因を、男はどんな思いで綴ったのだろう。
足元が不安定で、死に憧れる。
弱い男。
だが、ひどく愛しかった。
※ ※ ※
島田更紗は、その日も勤務する食品加工工場にて突然の残業を言い渡されたが、嫌な顔一つせずに黙々と商品を箱に詰めるライン作業に追われていた。
その業務内容は誰しもができる軽作業。
故に誰もが敬遠する仕事。
それでも生きるために、生活のために、更紗は毎日ただ延々とその作業をこなした。
不満がないといえば嘘になる。
だが、現状を打破できるだけの明るい社会情勢ではないだけに、今ある目の前の仕事にしがみつくより他に術がなかったのだ。
「………」
更紗は来月、35歳の誕生日を迎える。
愛車であるベージュ色のラパンで、家と職場を往復するだけの毎日の中に、出会いらしい出会いなど期待できるはずもない。
気が付けば、もう10年、更紗は誰と付き合うわけでもなく、ただダラダラと年月を無下に貪り尽くしてきたようだった。
(それはまるで今日が昨日に侵食されているようだわ。)
流石にこのままではいけないと、三ヶ月前、一念発起して登録した結婚相談所の登録料は、月会費10500円かかった。薄給の更紗にはキツい出費だったが、背に腹は代えられない。
「ようこそ!まあ貴女はなんて素晴らしいタイミングでいらっしゃったのかしら!」
勤務する工場から少し離れた街中の、比較的古びた雑居ビル4階にあった結婚相談所『ハッピーブライダル』。確かにネーミングセンスからして食あたりを起こしそうではあった。
だが、今さらどこでも一緒だろうとタカをくくった更紗は、立地条件のみでそこへの入会を決め、仕事が休みの昼下がりに何の気なしに予約をとった。
そして次の休みの午後三時。
一応一着のみ持ち合わせていたスーツを着込んで『ハッピーブライダル』を訪れると、50代とおぼしき女性、榊原節子に、両手を広げられて盛大に迎え入れられたのだ。
(そう、最初の威勢はあんなによかったのに…)
更紗を担当するプロの仲人、榊原節子は、プロゆえにプライドが高く、更紗の条件を満たしかつ相手の条件にも見合うマッチングに心血を注いでいるらしく、入会して早三ヶ月、未だに一人も紹介してはくれなかった。
(まあ、確かに難しいのかもね。)
更紗は、夜の帳が降りた闇の中でも煌々と照らされた工場の中で、流れてくる商品を梱包しながら、そっとほくそ笑んだ。
…確かに、更紗の希望した条件というのは些か難解ではあった。
年齢は不問。結婚歴も不問。
年収も不問。
ただ、
『自分では見えない世界を見せて欲しい。』
「えっと、島田さん、それは一体どういう、意味かしら?」
困惑した節子の顔が、三ヶ月経った今でも鮮明に思い出される。
「私にも、詳しくはわからないんですが、ただ父の、死に際の願いなんです。」
『嫁ぐならな、更紗、ワクワクする男のもとへ嫁げよ。家庭だけがお前の世界だとは、決して思うなよ。』
「私の母が、父と私を捨てて蒸発したことを、父は『母が未知へと大きく羽ばたいていった』と私に説明しました。母の、自由を愛した奔放さに、父は憧れていたのかもしれません。だから、そんなことを願ったのかもしれません。」
「ま、まあ、そうなの。…それは、お気の毒に。」
あの日の節子の哀れみのこもった言葉に、更紗は小さく苦笑した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます