病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈26〉

 オラン脱出作戦の決行が予定されていた当日、ランベールはリウーの元を訪ねる。不意に現れたランベールの姿を見て、リウーは驚いた様子で「あなたはなぜ今、こんなところにいるのだ?」と強い口調で問うと、「少し話をしたいのだ」とランベールは答えた。

 それから保健隊の仕事終わりに、タルーが運転する車に乗り込んで、三人は連れ立って帰路へ着くことになった。その途上でランベールは「自分は町を出て行かないことに決めた」と二人に告げた。

「…「僕は行きません。あなたがたと一緒に残ろうと思います」

 (…中略…)ランベールがいうには、彼はあれからまた考えてみたし、今も依然として自分の信じていたとおりに信じているが、しかしもし自分が発って行ったら、きっと恥ずかしい気がするだろう。そんな気持ちがあっては、向うに残して来た彼女を愛するのにも邪魔になるに違いないのだ。しかし、リウーはまっすぐに身を起し、そしてしっかりした声で、それは愚かしいことだし、幸福のほうを選ぶのになにも恥じるところはない、といった。

「そうなんです」と、ランベールはいった。「しかし、自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです」…」(※1)

「…ランベールはいった。「僕はこれまでずっと、自分はこの町には無縁の人間だ、自分には、あなたがたはなんのかかわりもないと、そう思っていました。ところが、現に見たとおりのものを見てしまった今では、もう確かに僕はこの町の人間です、自分でそれを望もうと望むまいと、この事件はわれわれみんなに関係のあることなんです」

 誰も答えようとせず、ランベールはいらいらしてきた様子であった。

「それにあなたがただって、それはよくご存じなんだ。さもなきゃ、何をなさろうというんです、あの病院で?いったい選んだんですか、あなたがたは?そうして、幸福を断念なさったんですか?」

 (…中略…)リウーは努力した様子で身を起した−−

「悪く思わないでくれたまえ、ランベール」と彼はいった。「しかし、僕にもそれはわからないんだ。僕たちと一緒に残ってくれればいいさ、君が自分でそうしたいっていうんなら」

 (…中略…)それから、じっと前を見つめながら、また続けた−−

「自分の愛するものから離れさせるなんて値打ちのあるものは、この世になんにもありゃしない。しかもそれでいて、僕もやっぱりそれから離れてるんだ、なぜという理由もわからずに」…」(※2)

 町を出て行かないというランベールの申し出に、むしろリウーが何だか妙にがっかりしてさえいる様子なのが印象的である。

 もしかしたら彼は、割合に本気で「誰か一人の幸福のために何かしてみたかった」のかもしれない。そんなことは叶いっこないような状況の中で、その困難を無理にでも打ち破って実現させようとする者がもしいるのであれば、それに何らかの「希望」を託してみたい。一方ではたしかにその希望の中身には、いくらか「羨望」の思いもあったかもしれない。自分だって出来るのであれば、離れた妻に会いに行きたい、でもそれは「出来ない」ことなのだ。とはいえ自分として敢えてそうしようとも思ってはいないし、実際にそれに向かって何もしてはいないのも、またたしかなことなのだが。しかしだからこそ、「誰か」にそれを叶えてもらいたいという気持ちもあるのだ。自分には出来ない、しようとも思わないことだからこそ。

 そんなような理由でリウーは、もうとっくに出発していると思っていたランベールが突然目の前に現れたことで、思わず叱責せんばかりの勢いで相手を問い詰めたのかもしれない。


 しかしランベールは、はたしてただ単に「幸福になるため」にオランを脱出しようと奔走していたのか。たしかに最初はそうだったかもしれない。このままここに足止めされているうちに、自分は幸福からどんどん遠ざけられてしまうのではないか、と。だが彼は、気づいたのだった。もしこのままオランを後にしたら、それはむしろ、この先にあるかもしれない幸福と自分自身とを隔てるような、何か「壁を作る」ことになるのではないかと。

 オラン脱出作戦前に身を寄せていた隠れ家で世話をしてくれていた婆さんが、「この町を出て恋人の元に戻らなければ、あなたに何が残るのか」とランベールに向かって言っていた。しかし、たとえ脱出が成功して、首尾よく恋人と再会できたとしても、その顔を見るたび彼は、思い出してしまうことになるかもしれない。オランに残してきた人々のことを。いまだ苦境の中に閉じ込められている一人一人の顔を。それは彼の「心に何かを残してしまう」だろう。そのことによって彼は、自ら幸福から遠ざかっていってしまうことになるかもしれない。それは、ランベールにとって全く望みもしないことだったろう。


〈つづく〉


◎引用・参照

※1 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

※2 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

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