病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈35〉
自身による二度目の説教会から数日後、パヌルー神父の身体に異変が生じた。
下宿先のベッドに臥せった彼は、家主の老婦人が心配して「医者を呼ぼうか」と問いかけても、頑としてそれに応じなかった。老婦人は、この下宿人がとりとめもない弁明を付け加えつつ、それでもなおはっきりと医師を拒み続けているのは、どうやら「彼の主義と一致しないからだ」ということを察しよく理解してはいたのだったが、きっとそれは熱に浮かされたせいで、冷静な判断がつかなくなっているためだろうというように結論づけた。ともかく家主の務めとして、彼女は病人に煎じ薬を飲ませ、二時間おきにその様子を見守ることにしようと心に決めたのだった。
そんな老婦人の目にも、パヌルーの病状は悪化するばかりであるのが明らかに見てとれた。病人は、熱によるものなのか奇妙な興奮状態を繰り返し、かけていた毛布を突然はねのけては、絞り出すようにかすれた咳を発しようとして、たびたび苦しげに身を起こしていた。そしてそのような発作が収まると、彼はすっかり力尽きてしまったかのように、ぐったりした様子で身体を横たえるのであった。
一日そんな病人の姿を定期的に見守っていた婦人は、夜になってからもう一度、医者を呼ぶことをパヌルーに提案してみたが、答えはやはり同じだった。そこで、とりあえずは朝まで待ってみて、それでもまだこんな調子が続いているなら、そのときは自分の判断で電話をかけることにしようと彼女は決断した。
翌朝、家主の老婦人が病人の様子を見に行ってみると、パヌルーは充血した目と蒼白な顔色を一層際立たせて、身動き一つせずベッドに横たわっていた。婦人が具合を尋ねると、彼は、その異様なまでの無関心な響きが思わず聞く者の注意をひくような声で、「ただ全て規則通りに、自分のことを病院に運んでくれれば、後の始末は済むことになるだろう」と、ついに医師を呼ぶことに承諾するのだった。その言葉を聞いて、老婦人は急いで電話口へと向かった。
通報を受けて、早速駆けつけたのはリウーだった。パヌルーを診察した医師は、病人自身がすでに察している通りに、きっともう手遅れだろうと老婦人には告げたのだったが、しかし一方で、その症状がはたしてペストであるのか否か、表れた特徴からでは判断をつけることができなかった。リウーはパヌルーに対して、「自分がずっとついていてあげますから」と優しく励ますように言葉をかけると、病人は急に生気を取り戻したかのような視線でリウーを見つめ、哀しいのかそうでないのか判然としない口ぶりで、「ありがとう、しかし修道士に友はありません、全てを神に捧げた身ですから」と言った。
その後パヌルーは直ちに病院へ移送されたが、臥せる床の上で彼は、誰に対しても何の言葉をも発することをせず、ただ十字架を握りしめたまま、まるで我が身への関心を失ったかのように、ただ全てを医師らのなすがままに任せていた。
入院後もパヌルーの病状は、さらに刻々とその苛烈さを増していった。凄まじい高熱を発しながら、病人は床の上で徹底的に苦しみ抜き、激しい咳をしては血を吐いていた。しかしその激動のさなかにあっても、パヌルーは己れ自身に対する無関心な姿勢を、奇妙なまでに維持し続けていた。
そして翌朝、彼はベッドから身を乗り出すような体勢のまま、誰に看取られることもなく息を引き取っているのを発見される。そしてその目にはやはり、何の表情も浮かんではいなかった。
彼の診断書には、リウーの手により一言、「疑わしい症例」とだけ記された。
ここで少し興醒めなくらいに穿った見方をすれば、パヌルーの死に至った一連の症状が、はたしてペストであったかどうか疑わしいというのは、結局のところリウーのペストに対する知見が、まだまだ完全ではなかったというだけのことでもあったと言えるだろう。パヌルーの例のみならず、後にグランやタルーが罹患した際にも、病状は全くリウーによる想定とコントロールを越えた展開を見せている。そして、なぜそのようなことになったか、ついにリウー自身にも解らずじまいだったのであった。ここでも医学は結局、ペストに敗れていることになるのだ。
〈つづく〉
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