病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈6〉

 たとえ自分の思いもよらないようなことが起こったからといって、それがすなわち不条理であるわけではない。『ペスト』の中でも語られているように、人はなぜそのような出来事が起こったのかということについては、たいがいにして無知なものなのであり、その無知の対象となる出来事は、まさしく無知であるがゆえに、人にとってはまるで不可解なものであるように思えてくる。そしてその不可解なものを、無知であるままに理解しようとすると、人にはその出来事があたかも「不条理」であるように思えてくるのではないか。

 また、ある出来事がこれまで当然のように従ってきた常識あるいは「条理」を破壊し、それと同時に自分自身の人格的根拠までをも危うくするのだとしたら、人はそのような、我が信ずる条理を脅かした当の出来事を恨むのか、それとも、我が身の存立を守りも救いもしてくれないような、頼りない常識や条理の方を恨むのだろうか。その出来事の渦中にあって、これまで良かれと信じて従ってきた条理・常識が、我が身をいささかも支え救うものとはならず、むしろそれに従えば従うほど我が状況は悪化し、苦境に追い込まれることになるとしたら、それは不条理というより自己矛盾であろう。

 条理とは、まさしく人の思惑として生じているものなのであり、そこには必ず何らか、そのように思いたいという「意図」が含まれている。「思いもよらないこと」というのは、まさにそのような「意図」によらないことをいうのであり、要するに「当てが外れた」ということに他ならないのだ。一体どれほどその当てに、信頼があったものなのかは知らないが、それが外れたくらいのことで、「不条理」だ何だと口走り騒ぎ立てるというのは、いささか思い上がりが過ぎるのでは、といったらそれは少し言い過ぎになるだろうか。


 『ペスト』の作中、病禍発生当初のオラン当局による初動対応の遅れは、全く致命的なものだったというように描かれている。どうやらいつの時代も、またどこの行政府でも、そういった奇妙なまでの暢気さというのは、大体変わらないもののようである。

 オラン当局にとって自身の対応は、まさしく「条理に従った」ものだと受け止めていたことであろう。それを「思いもよらず」ペストが、軽々と無作法なまでに乗り越えるようにして我らに襲いかかってきたのだ、これは我らには仕方のなかったことなのだ。そう弁明したいところかもしれない。

 しかし感染症は、当然ながらペストだけに限られたものではない。そもそも一般的なこととして感染症に対しては、常に何らかの準備というものは必要なはずなのだ。そしてそれを、ペストという現に生じた流行病に適応させればよかったはずなのである。保健委員会の会議中、お偉方が現下の病をペストと呼ぶべきか否かの議論に終始するのを見て、「言い方の問題ではない」とリウーが訴えたのは、まさにそういうことなのだ。

 一方でリウーは「ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態だった」と手記に記している。だが、ペストや他の自然災害ならばいざ知らず、人為に他ならない戦争に対して無用意であるというのは、まさに人としての不用意なのであり、それ自体がまことにもって、人に対して不作為の罪にあたることなのである。もしそれもまた言い過ぎだというならば、それは人として愚かなばかりなのだと言う他ない。戦争といったようなものこそは、人が人として常に備えているべき悪ではないのか。


 戦争や抑圧は人為である。人為は、人間が自らの利得を善とする欲求にもとづく行為として、その反面に悪を生じさせうる。ゆえにその生じた悪については、人間が全面的に責任を負わなければならない。

 一方で疫病や自然災害というものは、それを生じさせる「自然自体」には、何らの意図や思惑もありえないがゆえに、あくまでただ単に「現象として生じるのみ」なのであり、そのような「意図や思惑のない現象自体」が、それ自体として人間に利得をもたらすことにはなりえないし、それ自体において人間の利得を害するものとしての悪にもなりえないだろう。それがなりえるものだとしたらそれはやはり、人間の利得に対する思惑においてのみ、そうなりえるものなのである。

 たしかに現象自体はただ単に生じるだけのものなのだとしても、しかしその現象に関わる人間それぞれの観念や思惑によって、疫病や自然災害は、場合によっては不条理な悪にもなり、また別の場合には千載一遇の天恵ともなる。『ペスト』の作中で言えばコタールのように、そこから自分の利につながる要素を引き出そうとする者もたしかに出てくる。それは明らかに「意図を含む」行為である、すなわち人為なのである。そしてそのような人為にこそ、悪なるものは生じることになるのである。


 繰り返すと、「病気そのもの」は自然として常に現に存在するものなのである。それは何ら不条理ではないし悪でもない。なぜならそれは、それと関わるものさえそこにないのなら、必ずしも「常に病気として存在している」わけではないからだ。

 それが「病気になる」のは、それに何らかのものが関わることによって、つまり「人間がそれと関わること」によってはじめて、それは「人間にとって病気と呼びうる現象」に変わるのだ。そしてそういった、人間にとって病気と呼びうる現象への対応というのは、やはり人為においてなされるべきことなのである。それは、その現象が「自然にとって差し支える問題」ではなく、あくまでも「人間にとって差し支える問題」としてしか現象化しないからだ。

 しかし、その問題に対応するいかなる人為も、所詮は人間のすることである、そこにはいつでも何らかの意図や思惑があり、時には何らかの不備があり、あるいは何らかの悪が生じさえするのだ。ゆえに、それを不備や悪として生じさせる人為は、まさに人の罪として、人自身が責任を負わなければならないのである。


 あらためてもう一度言っておこう。疫病や自然災害そのものは、実際のところ不条理でも悪でも何でもない。それはまさに「自然」であり、何らの意図も思惑も含まないものである。それを不条理や悪として見出すのは、まさしく人間の観念であり、その意図や思惑なのだ。


〈つづく〉


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