病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈7〉

 病と悪と罪。人の苦を象徴するこの三つの現象は、たしかにしばしば混同されやすいものではある。なぜと思うにそれは、人の心は苦そのものに対しては、いかんせん盲目になりやすいからなのかもしれない。


 カミュは創作ノートの中で、自らの「病気」観を次のように記している。

「…病気とは、その掟や苦行の精神や沈黙や霊感を備えた一つの僧院なのだ。…」(※1)

「…理想は、病から力を奪うことであり、それによって弱さを拒否することだろう。…」(※2)

 カミュにとって病とは、あくまでも克服されるべき苦であり、排除しなければならない苦なのだということのようである。無論そのように思うことは何ら不自然なことではない。ただ、そのような見立てで病を見つめることは、やはり病を悪に見立てて見つめることを可能にもするだろう。

 病や災害を悪と捉えているのは、まさしくそれらを「人災」として捉えようとしている観念なのだ。人はよく、災害を戦争に例えたり、「憎むべき」とか「やっつける」とか扇情的な言葉を付け加えたりする。しかしその「当の相手」は、実際のところそれにあたって「何も意図していない」のであり、そのように何らの意図も持たない相手を憎み、それを悪あるいは敵と見立て、「やっつけてやる!駆逐してやる!」と、人は己れ一人気色ばんではいきり立っているわけなのである。まるで風車を巨人に見立てたドン・キホーテのように。とはいえ、風車もまたたしかに人為の産物ではあるのだが。

 病や自然災害「そのもの」は、けっして人災としては生じない。それを人災にしてしまうのは、やはり「人」なのである。その病や自然災害を受けて生じた、人間の何らかの思惑が、病や自然災害「そのもの」に対して倒錯した形で表れてくるとき、それがまさしく倒錯であるがゆえに人自身に災いするものとして、あたかも異形の怪物であるが如く人の眼前に立ち表れ、その行く手に立ち塞がってくるのである。


 人が自分以外の誰か、つまり「他人」の中に何らか悪や敵意を見出すとき、それを逆手に取って、その他人が抱いているとおぼしき意図や思惑に含まれている、その他人自身にとっては何らか都合の悪そうなことを見つけ出し、それをこちらの都合のよいように利用したり、またはその他人にとっての不都合な弱みにつけ込んで、その者を支配しようとしたりすること。そのような振る舞いはまさに、人の働く「悪」なのだと言って構わないだろう。

 しかし、ペストやその他の病禍、あるいはさまざまな自然災害などに、そのような悪と呼べるような意図や都合や思惑などを見出すことは、全く不可能なことなのだ。自然にどのような思惑も、あるわけがない。

 そのような、あるわけのない思惑や理由を、そこに見出してそれに恐怖し、逆に時としてそれを都合よく利用すること。それこそ文字通りの「不条理」だと言える。それは見方によっては滑稽な有様だが、しかしそのような滑稽で不条理な態度を、やはり人間というものはしばしばとってしまうものなのだ。その直面する事態が大きければ大きいほど、そういった滑稽さ・不条理さというものが、まるで比例するように浮き彫りになるものなのである。

 だからと言って、ならば人間はそのような自らの思惑をいっさい捨てて、唯々諾々と自然の為すがままに受け入れればよい、ということでもない。それもまた一つの思惑なのであり、それによる自己正当化は、むしろ欺瞞というべきものだろう。

 人が自然の脅威にさらされていることの無差別性と、それを払い除けうる「力」を人が有することの不平等性は、それぞれ全く異なる位相のものなのである。と同時に、そのような脅威にさらされていることの無差別性は、その脅威を払い除けうる力を持つことの不平等性と同様に、人にとって全く「抽象的」なものではありえない。人は、すなわち「われわれ」は、現に日常的にこの無差別と不平等の只中にある。


 繰り返して言う。天災自体は悪にはなりえない。しかし、その犠牲者というものは現に生じうる。では一体、それによって生ずる悲しみや怒りは一体どこに、一体何に対して向けたらよいのか。

 人間が「観念」というものを抱え込んで以来数万年、この苦悩は今もってなお、人間自身によっては解消できないままでいるのではないだろうか。これはたしかに人間にとって、不条理な事態であると思わざるをえない。


〈つづく〉


◎引用・参照

※1 カミュ「手帖2−反抗の論理」高畠正明訳

※2 カミュ「手帖2−反抗の論理」高畠正明訳

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