病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈8〉

 『ペスト』作中で登場人物たちが結成した保健隊の、その無私無欲で何ら見返りを求めない献身ぶりと、病疫の脅威に怯むことなくそれに立ち向かおうとする勇敢さというものは、その振る舞いを正義の戦いとして見立てるのには絶好の要素であると言えよう。この小説を読む者はそれを、まさに現代のさまざまな災害現場などにおける、各種派遣部隊やボランティア、医療従事者といった人々による「戦い」ぶりに重ね合わせて見ることだろう。

 主人公リウーには言うまでもなく医師としての立場があり、一方でタルーやパヌルー神父などには、ある種の受難志願者のようなところがある。ゆえに彼らが、自らのペスト罹患の危険性も顧みず、いわば「捨て身」の行動をとりうるのも、たしかに納得できる部分もあるとは思われる。またそれらの行為は、彼らに関して言えば、それまでの人生経験において培ってきた行動様式や、その行動を正当化しうるものとして自身を支えてきた、それぞれに抱くイデオロギーの延長として表現されているのだと見ても差し支えない。ゆえにその振る舞いは彼らにとって、あくまで「条理」の範囲内にあるものだと言える。

 しかし他のメンバー、たとえばランベールやグランなどについては、彼らはそもそも単なる一市民であって(ランベールにいたっては、たまたま当地へ取材にきただけの「余所者」である)、敢えて危険をおかしてまでペストの火中に飛び込んで行かなければならないような、いかなる理由もありはしないのだ。むしろそれぞれ個人としては、我が身に降りかかってくるとみられるあらゆるリスクを、どれだけ忌避し遠ざけようとしたとしても、けっして誰から責められる謂れもないことだろう。

 それなのにランベールやグランたちは、わざわざ自分から保健隊に志願した。それが彼らにとって、全く割に合わないことなのにも関わらずである。


 ランベールはリウーに、「このまま自分がここから逃げ出すのは恥ずかしい気がする」と語っている。一方グランは作品冒頭で、それまで大して付き合いもなかった近隣住民であるコタールの異状を見かね、ごく素朴な互助感情をもって、そのことをリウーに通報している。そういった、それぞれ個人的な心性に根を持った何ものかが、それぞれの動機となって彼らを保健隊への参加に突き動かしたのだということは、たしかに考えうるところだろう。

 しかし、その時点に至るまでの彼らそれぞれの人生の道行きや、そこから芽生えたものと思われる各々の「生活信条」からすると、それはいかにも彼らがやりそうもないことであるように思えてならない。

 上司に自分の処遇改善を訴え出ることも出来ず、長年に渡り薄給の小間使いに甘んじているグラン。「正義」や「勇気」などを騙る者らに失望し、私的な幸福に敢えて固執することで、自らがかつて抱いていた理念を封印したランベール。そんな彼らには、自分たちがわざわざ自発的に、リスクをおかしてまで他者や世間に献身しようとするなどとは、その時になるまで全く思いもよらなかっただろう。ゆえにそれは、彼ら自身においても「不可解な回心」となったわけであり、その振る舞いは自分たち自身としても全く驚くべき「不条理な飛躍」なのであった。


 たとえばもし、坂を石ころが転げ落ちてきて、道端に散らばっているとする。それは人々が歩くのにとても邪魔になる。しかし、別にそんなことは関わりのないことだとして、自分自身としてはただそこを避けて通るだけのことでもよさそうなところを、彼らはわざわざその石ころを拾い上げて片付けようとし、しかもそれだけでなく、改めてわざわざその坂道を登ってまで、もともとその石のあったところにまで戻しに行こうというのだ。何も、誰からも、それを強いられてなどいないのに。

 「なぜあなたたちは、わざわざそんなことをしているのか」と尋ねてみたとしても、彼ら自身としてはそれに何とも返答しようがなかっただろう。しかしそれでも何か聞かれるのなら少しは答えようかと思って、「何か今、そうしなければならないような気がしたから」くらいのことは、その問いに返してくるかもしれない。とはいえ、その程度の答えしかきっと彼らからは出て来はしないだろう。そんなことをする意味も理由も、そもそも彼ら自身にないのだ。しかし、彼らはそれをする。「自分から」そうするのだ。何か今、今こそ彼らは、そうしなければならなかった。敢えてここで答えを出すのなら、それはまさに「今」ということに他ならないだろう。なぜなら彼らが(そしてもちろん、われわれもまた、ということになるのだが)現に生きているのは「まさに今」であるのに他ならないのだから。


〈つづく〉

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