病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈5〉

 中条省平は、『異邦人』の主人公ムルソーが「世界が不条理なら、人間も不条理であってかまわないのではないか」と考え、自らその不条理を実践したのだというように言う。

 だがムルソーははたして、そのように自ら不条理を「意図した」のであっただろうか。むしろ彼自身としては、その行動において「何も意図してはいなかった」のではないだろうか。行為の前提に何の意図も思惑も持っていなかったからこそ、あのような不条理な結末に至ったのではなかっただろうか。


 『異邦人』を読む多くの人たちは、ムルソーが「太陽が眩しかった"から"殺人を犯した」と裁判において証言したことで、「まさかそんな理由で人を殺すなんて」というように、彼のことをまさに不可解にして不条理な人物だと思うのだろう。たしかにムルソーが拳銃の引き金を引いたそのときに、「太陽が眩しかった」ことは事実である、彼が母を埋葬した日と同じように。そこにはたしかに、何かしらの共通性と言えるものがあったのだろう。その共通性にムルソーの精神は、ある種の共振を起こしたのかもしれない。

 そして裁判で尋問されたとき、彼は「ふとそのことを思い出した」のだろう。そしてそれをそのまま口に出した。しかしそれは、「ただそれだけのこと」だったのではなかっただろうか。ムルソー自身が言っているように、その証言は「多少出まかせ」のようなものであり、「自分の滑稽さを承知」した上でのものだった。要するに、彼自身の行動には何らの意図もなく、さらには何らの意味もないということであり、「そこには何ら意図もなく意味もないのだ」ということだけが、彼の実際に言いたいことだったのではなかったか。


 ムルソーをめぐる不条理とはむしろ、彼自身が裁かれているその裁判において、検事や弁護士さらに数々の証人たちが代わるがわる彼の事件について語る中、「これは一体誰の裁判なのだ?被告人は誰なのだ?あなたたちは一体誰のことを語っているのか?」と、ムルソー自身がそれらに対して強い違和感と疎外感を覚えたところに集約されるのだ。

 誰もが私のことを語っているのだが、実際には誰一人として全く私のことを語ってはいない。私自身はいっさい何も語っていないのにも関わらず。

 しかしこういったことというのは、実はわれわれの誰もがまた、それぞれに経験したことがあるはずの「不条理」なのだ。われわれも実際「日常的」にこういったような、私の知っている私と、他人の語る私の間にある強い違和感と、それに対する寒々しい疎外感に苛まれるようにして日々を暮らしているものなのではないだろうか。

 『異邦人』を読んでいて私自身、ムルソーのことを「不条理な人物」だというように思えたことというのは実のところこれまでほとんどなかった。思うに彼は、別に「不条理な人物」などではなく、むしろわれわれと同様な程度には、全くもって「普通の人」なのだと言えるのではないか。欲望を抱き、自分の利を優先し、他人の振る舞いに動揺し、時折トンチンカンな言い訳をする。どうだろう。われわれもまた彼と何ら違いなく、同じようなことを毎日のようにしているはずなのではないか。

 ならばもし、ムルソーのことを「不条理な人間」だと言うのなら、われわれにしたところで間違いなく、同様に不条理な人間と言われるべきなのではないだろうか。


〈つづく〉

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