病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈4〉
カミュの小説はまた、「不条理文学」の代名詞ともなっているのは周知のことである。彼の作品を語るのに「不条理」というワードが欠かせないのは確かなことなのだが、しかし一方で、とりあえずそのワードを入れておけば、カミュについて何か語っている気分にさせるというような、ちょっと困った言葉でもあるようだ。
「…世界というのはまぎれもなく不条理なもので、戦争もあり、天災もあり、ペストのような疫病もあり、決定的な災厄として人間に襲いかかってきます。それは不条理、つまり、理不尽で、ばかげている。そして、そんな世界の不条理性に気づいた人間が、人間も不条理であってかまわないのではないか、と(…『異邦人』のムルソーのように…)その不条理をみずから実践してしまうことがある。…」(※1)
あれも不条理これも不条理、渡る世間は鬼ばかり。とかく人間、自分の思うようにならない、やるせない状況に見舞われると、どうにもそんな気持ちになりがちなものである。
しかしそもそも「不条理」とは、実際のところ一体どのようなことを言うのだろうか。
たとえば、『シーシュポスの神話』の訳者である清水徹は、不条理とは何であるかの解説として、「…たとえていえば、水に濡れないつもりで川のなかに跳びこむ----それがabsurde(不条理)な行為なのだ。…」(※2)というように、その訳中において付記している。しかしもし、ここにある例に従うとしたら、不条理とはただ単純に無知を意味することとなり、かつ不条理な人間というものはただ単純に愚か者であるのにすぎないということになるのではないだろうか。不条理というものは、はたして「その程度」のものなのだろうか。
たとえばもし、自分には思いもよらないこと、自分では望んでもいないようなことに見舞われると、それは何だか自分にとって不条理なことに思えたり、また実際そのように口に出して言ったりすることがある。だからといってそれは、たしかに理不尽であるとは言えるのだとしても、すなわち不条理であるとまでは言えないのではないだろうか。
あるいは、たとえばもし、全てが一変するかと思えるほどの大きな変化を伴うような状況に直面したとき、人はその状況にまつわる様々な情報をかき集め、それを事実として受け止めながらも、どこかしらそれに対して半信半疑である。「大変なことになった」とは思う一方で、「しかし本当はそれほどのことでもないのではないか」とも思う。その狭間で揺れ動いているうちに、状況は本当に変化一色に塗り込められていく。しかしこれもやはり、別に不条理なことだとまでは言えないだろう。
以上に挙げたようなことは、むしろ人の思惑においてはある程度「よくあること」なのであり、その意味で全くのところ条理の範疇にあるものなのだ。
しかし、たとえばもし、自分自身が生き長らえるために、自らの臓器を切り売りし続けなければならないとしたら、それはたしかに不条理だろう。それではいずれ自分自身が生きていられなくなるのだから。
もしくは、たとえばもし、「自分なんか生まれて来なければよかった」と悲嘆に暮れることがあるとする。しかしこの考えもやはり不条理なものなのであろう。そのような考えに基づけば、もし自分が生まれて来なかった場合に享受できるであろうと想定される、「そうであってよかった」という感覚およびその実利は、当の「生まれて来なかったはずの自分」が受け取ることになるはずのものであるのだから、これは自分自身においては全く不可能なことなのであり、よってこのような願望自体が不条理となるのである。
または、たとえばもし、「国のために死ね」と国民に命じるような国家は、全く不条理だと言える。その国家の成員が(それがたとえただ一人であっても)欠けるようなことになる事態を国家自身が認めるというのは、自らの力が衰減するのを承認するということであり、これは国家としては矛盾であり不条理である。
以上に挙げたように、不条理とはまず何よりも、このような矛盾を含むことによって成立するものなのである。
さらには、たとえばもし、そのように国から「死ね」と命じられた当の国民自身が、それに対して何の疑問も異論もなく、あたかもそれが主体性・自発性をもっての振る舞いであるかのように、それがあたかも、国の体制維持する最優先事項であるかのように、自ら率先して自分たちの生活やその生命を維持するための、いっさいの努力を放棄していくようになる。外部からすればそれはあたかも死へ向かっての行進であるように見えても、本人たちにはあたかも栄光に満ちた勝利への進軍であるかのように、意気揚々と一心不乱に突き進み続ける。もしカミュの言う「集団的不条理」という概念が当てはまるとしたら、それはまさにこういった、集団的な振る舞いにおいて時折見受けられる不可解さに他なるまい。
さて、疫病は不条理なのであろうか。天災はどうか。戦争や抑圧などはどうだろう。それらは「どれも同じように」矛盾していて、不条理で、理不尽で、馬鹿げたこととしてあるものなのだろうか。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 中条省平「100分de名著・カミュ『ペスト』」
※2 カミュ「シーシュポスの神話」訳者清水徹付記
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