病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈39〉
グランの証言によれば、コタールは「何かしら心にとがめることのある人」だということである。事実コタールにはたしかに「心にとがめる」事情があった。そしてその事情がさらに、彼の精神をいびつなものにしていく悪循環に至らせていたのだった。
まずは少し、グランによるコタールの人物像の描写を見てみよう。
コタールは、「表向きは、酒とリキュール類の代理販売業者となっていた」という。彼の元へ「たまに、顧客らしい二、三人の男の来客があった」のをグランも目撃している。
まだペストの影もなく、同じアパートに暮らしていても互いに交流のほとんどなかった頃、グランが時折見かけるコタールの印象といえば、「…自分ひとりに閉じこもった、沈黙がちな人間で、ちょっと野猪という感じの男…」(※1)といった程度のものであった。そして、「…その居室と安レストーランと、そしてかなり謎に包まれた時々の外出と−−これがコタールの生活のすべて…」(※2)のようであり、「…いかなる場合にも、この男は一人を好み、人を警戒していた…」(※3)というように、グランのその目には映っていた。
それが自殺未遂事件以来、コタールの様子が変わってきたとグランは言う。
「…どういったらいいか、とにかくまあ、そんな感じがするんですがね、世間の人たちと仲直りしようと心掛けているっていうか、世間みんなを自分の味方にしたがってるっていうか。私にもよく話しかけて、一緒に外へ誘ったりしますし、こっちもそうしょっちゅう断わってばかりはいられませんしね。それに、私には興味のある人物ですし、しかもとにかく、命を救ってやった人間ですから。…」(※4)
それからというものコタールはどういうわけだか、グランのことを豪華なレストランなどへとしょっちゅう連れ回すようになっていた。
「…「こういうところだと気持ちがいいんでね」と、コタールはいっていた。「それに、まわりがみんな感じのいい人ばかりだし」
グランはその店の人々のコタールに対する特別な注意ぶりに気がついたが、コタールが莫大なチップを置いて行くのを見て、その理由がわかった。コタールは、それと引きかえに人々が示してくれる慇懃さにきわめて敏感のようであった。。ある日、給仕頭が彼を送り出してオーヴァーを着せかけてくれたときなど、コタールはグランにこういったりした−−
「まったく気のいい男でね。あれならきっと証人になってくれるな」
「証人って、どういう?」
コタール口ごもった。
「つまり、なんですよ、私が悪い人間じゃないっていう……」…」(※5)
一方でコタールは、時々急に機嫌が悪くなるようなことがあったという。ついこないだは自分に愛想よくしていた店員の態度が、ふいにそのときには「いつもほど」に感じられなかったということなどがあれば、「彼はとてつもなく腹を立てたまま家へ帰って来」て、グランを相手に罵詈雑言をぶちまけるのだった。
「…「ほかのやつらとよくなっちまいやがって、あの下司おやじ」と、彼はしきりにいっていた。
「ほかの誰と?」
「誰でもみんなですよ」…」(※6)
そして、その当の相手がペストにかかって斃れでもすれば、彼はまるで嘲るようにさえ言うのだった。
「…コタールは、彼の住んでいる界隈の大きな食料品屋が、うんと高い値で売るつもりで食料品をストックしていて、その男を病院に連れて行くために迎えのものが行ったとき、寝台の下から罐詰が発見されたという話をした。
「そのまま病院で死にましたがね。ペストってやつは、勘定なんて払っちゃくれませんや」…」(※7 カミュ「ペスト」116頁 宮崎嶺雄訳)
コタールは結局のところ「世間みんなを自分の味方にしたがって」はいたのだが、しかしけっして「世間の人たちと仲直りしようと心掛けている」わけではなかった。彼は他人への警戒を緩めることができず、絶えずその顔色をうかがうことをやめられない。猜疑心をもって一定の距離を取り、自分を貶めはしないかと相手の様子を見、値踏みする。
しかしこういったこともまたやはり、われわれが日頃からしていることのままだとは言えないだろうか。もちろん、それを面と向かって問われて、肯う者もたしかにいないのだろうが。そのようなことはたしかに、誰もがそれぞれ胸の内に秘めておきたいことなのではあろうが。とはいえやはり、このような振る舞いはわれわれも日常からしているわけだし、その点においてわれわれとコタールはたしかに「同様」なのではないか。とすればやはり、彼の姿はわれわれの姿でもあり、ゆえにもしそのとによって、彼に罪があるのだとすれば、それはまた、われわれも問われるべき罪なのでもあるわけではないのだろうか。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
※2 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
※3 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
※4 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
※5 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
※6 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
※7 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
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