病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈40〉

 コタールは世界と和解する気でいたわけではなかっただろうが、かといって逆に、世界を破壊してしまいたいとまでは思ってもいなかっただろう。彼はただ、彼なりの理屈で、世間の人々には「生きたまま」でいてもらった方が都合がよかっただけなのである。

 コタールは孤立を恐れていた。孤立が、彼の罪を白日に晒すことを恐れていたのである。そして何より「自分だけ」が罪ある者とされるのを、コタールは心から恐れ嫌ったのであった。

「…彼の欲しない唯一のことは、つまりほかの人々から引き離されることである。彼としては、みんなと一緒に襲われているほうが、一人ぼっちで囚われの身となっているよりもましなのだ。…」(※1)

 カミュはコタールの人物像を構築する上で、「逮捕という精神病」(※2)という言葉を創作ノートに書き記している。これは、オランの町の「一般の人々」が直面する、いわば「拘禁という精神病」と言いうる集団的心理状況に相対する形容とも受け取れる。

 しかし、ペストの下での「拘禁状態」というのもまた、まさに「形容」の言葉なのであり、言い換えれば「一般的な」観念、すなわち「誰にでも適用できる」観念なのである。だが、コタールの関わる「逮捕」というものは、彼自身個有の現実的な可能性であり、彼自体を対象とした、具体的な法的事案なのである。法はあくまで、「彼だけを」逮捕しにくる。囚われることになるのは実に「彼だけ」なのである。これをもし「精神病」とするならば、それが「彼だけの病」であるがゆえに、彼はまさにそのことについて病むことになるのである。ゆえにもはやコタールにとっては、逮捕されること自体が苦であるというより、むしろ「彼だけが」逮捕されることの方に苦を感じることになるのだ。


 コタールはペストを欲していた。「彼だけが病である」ことから逃れるために、いっそのこと「誰も彼もが病となる」状況を欲したのだ。

「…かつてかれは、病や不具であることが、同様にまったく正当にかれを庇護してくれそうだと感じていた。そしてその昔、犯罪者たちが砂漠に逃れていったように、かれは、クリニックか、サナトリウムか、養護院に逃亡するつもりでいたのだ。…」(※3)

 サナトリウムであれ養護院であれ、そこに収容されるときは「彼だけ」が病に冒されたときだ。「彼だけが病である」がゆえに、その病に苦しむのもまた「彼だけ」である。全てが「彼だけ」を目がけて降り注いでくる。その中で彼は孤立し、彼だけが世界から引き離されている。「病人」とはまさに、そのような孤独の砂漠に追放されている流刑者たちなのである。

 しかし今は、全ての人間が潜在的に病人なのだ。町全体が収容所なのだ。木を森に隠したいコタールにとって、ペストによって町が混乱に陥っている現状は、まさに絶好の機会ともなった。「自分だけ」が白日に照らし出され、世間の野辺に晒されることもない暗闇の世界。「誰もが」重荷と痛みと不安を抱え込んでいる、奇妙な平等。まるでこれは、彼のために降ってきた幸運であるかのように、コタールには思われたことだろう。


 ペストの猛威がいよいよ誰の目にも顕わになって来た頃、コタールは嬉々とした様子でリウーにこう言ったものだ。

「…「ところで、先生。このペストってやつ、どうですか、そろそろ本物になってきそうじゃありませんか」

 医師はそれを認めた。すると相手はなんだかおもしろがってでもいるような調子で、こう認定した−−

「こいつが今になって熄むっていう理由はなんにもないんですからね。いまにそれこそ上を下へって騒ぎになりますぜ」…」(※4)

「…「さあ、いよいよってわけですな」と、そういうことを肯定するには似合わないにこやかな調子で、コタールは注釈を加えた。「われわれはみんな気違いになっちまいますよ、それこそ間違いなしに」…」(※5)

 「われわれみんな」が混乱をきたし、常軌を逸した行動に走ること。それはコタールにとって、絶好の隠れ蓑となるはずだと思われた。「自分だけ」がおかしいのではない、みんなが揃っておかしいのだ。そう思うことができるのならば、あたかもそれによって「自分自身のおかしさ」は、なかったことにもできるのかもしれない。コタールにはそんな風にも思われた。人々と一体となっていられる手段、コタールにとってそれがペストだった。彼はこの際、ペストを利用し尽くせるだけ利用してやろうとしていた。

「…このすさんだ心の持主は隣人を呼び求め、彼らの温かい心に乞食のようにありつこうとするのだった。そして空洞のあいたようないじけたこの魂は、砂漠に新鮮な生気を求め、病と災厄と破局から平和をつくりだすのであった。…」(※6)

 ペストに誰もが苦しんでいる、その中に紛れ込んで生活をする、このかりそめの平和な日々を、コタールは楽しんでさえいたのだった。ペストの只中にあって、ただ一人「彼だけが」解放の歓喜を心ゆくまで味わっていた。


〈つづく〉


◎引用・参照

※1 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

※2 カミュ「手帖2−反抗の論理」高畠正明訳

※3 カミュ「手帖2−反抗の論理」高畠正明訳

※4 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

※5 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

※6 カミュ「手帖2−反抗の論理」高畠正明訳

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