病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈41〉

 コタールは、ペストが蔓延するまでは自分がいずれ警察に逮捕されるのではないかと怯えながら日々暮らしていた。では一体、彼は現実にどのような罪を為したというのだろうか。その事実の一端を暴いたのはタルーであった。

 タルーは、ランベールを保健隊に勧誘していたのと同時期に、コタールにもまた声をかけていた。新聞記者であるランベールについてならそれもわからないではないが、同様にコタールにも目をつけたというのは、一体どういう公算があってのことなのだろう。このあたりは、少し手当たり次第の趣きがないとも言えないのだが、ともかく隊の頭数を揃えたいというのであれば、まず意図としてはそれも理解できなくはない。


 タルーは、「あまりにも多くの人々が無為に過していること、疫病はみんな一人一人の問題であり、一人一人が自分の義務を果すべきであること」を真摯な態度をもってコタールに説き、「隊はすべての人々に開放されているのだ」と、保健隊への参加を促すのだった。しかし、案の定コタールの方はタルーの誘いを頑として拒み、逆に隊の活動の無意味さを冷笑するのだった。そこでタルーは口調を変え、あたかもカマをかけるようにして、コタールの抱える事情について言及した。

「…タルーは、突如真相が心にひらめいたかのように、ぽんと額をたたいた−−

「ああ、そうでした、すっかり忘れてしまって。あなたは逮捕されるわけでしたね、このことがなければ」

 コタールはいきなりのけぞると、今にも倒れそうなかっこうで椅子につかまった。(…中略…)

「誰がそんなことをいったんです?」と、コタールは叫んだ。

 タルーはまるで以外なことでもきかれたという様子で、いった−−

「あなたがおっしゃったじゃありませんか。そうでないにしても、とにかく、そういうふうに、リウーと私はうかがったつもりなんですがね」…」(※1)

 実際にコタールが、そのような話をタルーにしたのだったか、そしてそれはリウーも承知していることなのか。おそらくはタルーのつき合いがある、街の誰かから仕入れてきたネタなのだろうと推察できる。

 ともあれタルーは「自分たちだって警察など好きなわけじゃない、密告するようなことはしないから安心するように」と、興奮するコタールをなだめるように言うと、相手はそこで観念したかのように、「自白」をはじめたのだった。

 「…「古い話なんですよ」と、彼はみずから認めた。「そいつが今頃引っ張り出されて。私はもう忘れられたことと思ってたんですよ。ところが、一人しゃべったやつがあるんです。そこで呼び出されて、取り調べの終るまで、いつでも出頭できるようにしていろといわれたんです。それで、結局私は逮捕されるだろうとわかったわけです」

「重いことなんですか?」と、タルーは尋ねた。

「それはおっしゃる意味によりますがね。いずれにしても、殺人じゃありません」

「禁錮、それとも懲役ですか?」

 コタールはひどく打ちしおれた様子であった。

「禁錮でしょう、運よくいって……」

 しかし、ちょっとしてから、彼はまた猛烈な勢いでいい出した−−

「ひょっとした間違いなんです。誰でも間違いってものはあります。私は、考えるだけでもたまらないんです、そんなことで連れて行かれるなんて、そうして自分の家からも、慣れた暮しからも、知り合いのみんなの人たちからも引き離されるなんて」…」(※2)

 ランベールの脱出計画などから垣間見えるその交友関係や、オトン判事によるランベールへの忠告からも窺えるように、コタールが密輸などの裏稼業に関わっていたのは確からしいところである。その上で、さらに何か穏当ならざる危険な物品の売買に手を出したのか、わざわざ「殺人ではない」と断ってまでいるのだとすれば、むしろ逆にその手前あたり、強盗くらいのところまではいったのか。いずれにせよ、こう言っては何だが「所詮その程度」のことなのであろう、コタールのような小心者の犯す罪などというものは。自分でも「そんなこと」と言っているくらいなのだから。

 そしてまた彼には、その罪についての反省というもは、やはりいっさいカケラもないのだった。まずもって彼の気がかりになっているのは、「自分の家」であり、「慣れた暮し」であり、「知り合いのみんなの人たちからも引き離される」こと、こういったように徹頭徹尾自分のことばかりである。たしかにそういう反省のなさは、それ自体としても罪に当たることだとは言える。この点に関してはコタールに、情状酌量の余地はないだろう。


 それはそうと、ひとまず自分たちの活動の意義などといった正論を説いてから、どうやら相手に脈がないと見るや、今度は弱みを突いて動揺させ、気持ちの注意をこちらに引きつける。思惑通りタルーに事情を見破られたコタールは、その後むしろ相手のことを「あれは人物だ、話ができる、こっちの言うことをわかってくれる」などと言って、逆にすり寄ってきさえすることになるのである。このあたりは、かつての政治活動経験から習得した、タルーの手管だとも言えるだろう。

 また、人々の無為を批判し、義務と奉仕を説くロジックは、「あなたたちは一人一人の幸福より公共性を優先させているにすぎない」というランベールの非難を、図らずも裏付けてしまっているようである。こういう言葉が思わずポロッと出てしまうあたりも、タルーの持ち合わせるイデオロギーのあらわれだというように考えることができるだろう。


〈つづく〉


◎引用・参照

※1 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

※2 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

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