病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈53〉
リウーのかかりつけ患者である喘息持ちの老人が、あるとき彼の元をタルーが一人で訪問した際に、二人の間で交わされた会話の中で、「ペストはまさに神父さまの言う通り、きっと何らかの報いに違いないのだろう」と皮肉を交えながら断言していたと、タルーの残した手記には書き留められてある。おそらく老人はパヌルーの演説やその内容などについて、そのときすでになんらかの形で聞き知っていたのだろう。
しかし一方では、「神はきっと存在しない、もしいるというのなら、神父などという存在はきっと無用なものとなるはずだから」とも言う。タルーの解釈によれば、その言葉の裏には寄付金集めに奔走するばかりの「世俗的な」宗教者たちに対する、幾ばくかのネガティブな感情が入り交じってもいるのだということなのでもあろうが、それでもやはりこういった一言がふと口をついて出てくるあたり、やはりこの老人はなかなかに、核心をついたものの見方をしているようにも思える。
他方リウーはタルーほどには、この自分の受け持ち患者である老人の言葉に関心というものを寄せてはいない。彼の手記ではこの老人について、「おしゃべり」だとか「減らず口」だとかといったように、すげない言葉で書き記されているし、実際の場面ではまさにその老人の減らず口を容赦なく遮って、自身の治療行為へなかば強引に引き戻したりもしている。
リウーにとってこのイスパニア人の老人は、あくまでも自分の担当する患者の一人にすぎないのであって、その関係性の域を出ることはけっしてないし、ゆえにそれ以上相手に関心や興味も持つこともない。無論いささかたりともこの老人が、聖者などというものに見えようもないわけである。
以前に挙げた『ペスト』邦訳者による登場人物たちの分類に照らしてみると、この喘息持ちの老人は、リウーやタルーらとともに「不条理人」に分けられている。
改めてタルーの手記を引くと、老人は「人生には上昇期と下降期に分かれており、下降期においては自分の日常はもはや我が物とすることはできない、人はそれをどうすることもできないし、それに対して一番いい対処とはまさに何もしないことなのだ」と、自らの現状と行く末について語ったというように記されている。その言葉はまるで、「運命には逆らえないのだから、素直にそれに服従すべきものなのである」と、一見した限りでは何やら「坊主臭い」諦観めいた物言いであるかのようにも思えるだろう。「反抗の人」リウーとしたら、それは決して受け入れえない考えなのかもしれない。しかしもしも、人生はひたすら上昇し続けるもので、その日々は全て我が物であり、その中で人は何でも為しうるのだ、とでも考えられるというならば、むしろそれこそまさしく不条理な話であろう。
タルーは自身の考える聖者の条件を、「習慣の総和」だと仮定している。一方で、たいがいの病というものもまさしく、結局のところは習慣の総和なのだと言えよう。とすれば聖者とは、要するに病人のことなのである。そして「不条理人」なるものもまた、まさしく病人であるのに違いないのだ。喘息持ちの老人はまさしく文字通りの病人だが、一方でリウーもタルーもまた、分類上確かに病人なのだと言えよう。もし彼らが、共に同じくして「不条理人」と呼ばれるべき者たちだというのならば。
タルー自身、「結局人間は聖者に似たようなものにしかなれはしないだろう、であれば、せいぜい謙譲にして慈悲深い堕天使精神(サタニズム)をもって満足するほかあるまい」というように言っている。病を得るということは、人間にとってはまさに「下降、すなわち健康=天国からの転落」であろう。地に堕ちた天使が聖者たりうるか否かはまた別の話として、病むことなくして聖者たりえないのだとしたら、それはたしかにサタニックで「不条理」な条件ではなかろうか。
ここで今一度、他の登場人物たちとの類比において考えてみると、この喘息病みの老人は、コタールともどこかで相通じるところがあるようにも思われる。もしコタールが、あまり波風の立たない生活に巡り合っていて、うまくその暮しを引き続けられていたとしたら、ひょっとしたら彼だっていつの日にかは、こんな暢気な年寄りになりえたのかもしれない。その、サタン的な本性を露わにすることもなく。
逆に考えると、そんな風に聖者と悪党の分かれ道が紙一重のもので、ただ単に何らかの偶然でその運命が左右されるのにすぎないのだとしたら、結局のところは聖者も悪党も、この世界のどこにだっていやしないのだ、ということにもなるのだろう。むしろそんなことによってもし自分が聖者になったり、あるいは悪党になったりするものなのだということなら、そんないい加減な偶然やら運命やらにこそ人は不条理というものを覚えるのだろうし、であればそれに対してこそ人は心底から、怒らなければならないはずなのではないだろうか。
〈つづく〉
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