病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈52〉

 タルーは「神によらずして聖者たらん」と欲していた。そのような、自ら聖者たらんと欲する意志とはまた、自らの「存在」に永遠の生命を欲する意志と同義なのだとも言えよう。であればもし、それを神なしで実現しようというならば、たしかにそれは天上の世界においてではなく、あくまでもこの世の人々の記憶に残り続けるものとならなければならないということにもなるだろう。彼らを聖者として認め、その心の内に「永遠に留め置く」ことが出来るのは、神ではなく人だということになるわけなのだから。

 とすれば後にリウーがタルーをはじめとした、ペストをめぐるオランの町の聖者たちの記録を書き残そうと思い立ったのは、あるいはそのような意図を含めてのことだったかもしれない。彼はまさにそれら「ペストの神々」の使徒となる役割を、自ら果たそうとしたのだとも言えるのではないか。


 ところで当のタルーはまた、自分自身が聖者であろうと欲するのみならず、その周囲において関わり合う人々に対しても、その中に何らか、聖者たる資質のある者を見出そうともしていた。

 そしてタルーは、彼が意中とする聖者の候補として一人、リウーのかかりつけ患者である、喘息持ちの老人のことを挙げている。

 このイスパニア系の年寄りは、タルーが取材したところによれば、かつては小間物屋を営んでいたのだという。その頃は持病である喘息の症状も、無理さえしなければまだまだ十分に仕事を続けていける程度に抑えられていたはすだったのだが、しかし彼は五十歳にして早々に、仕事だけでなくその他いっさいの社会的な生活からもリタイアしてしまい、以来この七十五の年に至るまで、ひたすらベッドの上で日々を過してきたのだった。

 一方で、老人の妻が語るところによれば、彼は若い頃から外の出来事や、さまざまな遊興などにほとんど関心を示さなかったのだという。寝込んでから一度、遠方への外出を試みてはみたのだったが、しかし汽車で隣の駅まで行ったところで、早々に引き返してきてしまった。それきり遠出はおろか、近場へも出て行くようなこともついぞしなくなった。

 とはいえ本人は、そんな暮らしの中であってもいたって機嫌良く毎日を過ごしているようなのであった。どういうわけか時計が何より嫌いらしく、家の中には一つとして置いていない。その替わりに臥せっている床の上で、鍋いっぱいにしたエンドウ豆を、また別の鍋に移し替えるだけの作業をひたすら繰り返して、それが済んだところを頃合いに、その日一日の時の流れを判断するのだという。この、一見して何の意味もなさないような作業は、何となくシーシュポスの逸話を地で行くもののようにも思われてくる。


 繰り返すと、この喘息病みの老人はベッドの上でずっと時を過ごし、一切外出ということをしないのだが、それでも世間の有様に対しては、時折鋭い批評眼を披露するのであった。タルーにしてみるとそれは、多分にどこかからの受け売りの点も否めないのだが、しかしそれでもペストの終焉期には、一時は全く消え失せてしまっていた鼠が、また現れてきて巷を駆けずり回りはじめたことをいち早く察知してみせたりするあたりのその観察力は、やはりなかなか侮り難いものがある。

 さて、この喘息病みの老人を世間的に見るならば、昔ならば世捨て人、今ならさしずめ引きこもり、ということになるのだろう。この老人を形容するにあたってリウーの言葉を借りるならば、要するに彼はグラン以上に「ペストから千里も万里も離れたところにいた」わけなのである。


 ところでこの老人は、作中において固有の名前を持たない人物として登場する。しかしもちろん彼は、単なるモブキャラクターなどではなく、その存在は明らかにこの作品において、他に替え難い重要な位置を占めているのだと言ってよい。

 まず何より彼自身「動かない」ということが、その地位を占めるにおいて重要なポイントとなるのである。彼の存在は、ある意味まさしく「場所」なのだ。実際、物語のその始まりから終わりに至るまで、展開上の大きな場面が、どういう巡り合わせか、決まってこの老人の居宅を軸に繰り広げられている。タルーの告白も、リウーがペストにまつわる人々の手記を書く決意をする物語のラストシーンも、まさにこの老人の家のテラスにおいてのことなのである。


〈つづく〉

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