病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈28〉

 ペスト禍終盤期の数ヶ月を、リウーたちと共に保健隊の仕事で町中を奔走し、結局最後までオランに居残ってしまったランベール。

 そんな彼の元へ、二月に市の門が開放されたまさにそのとき、まるで待ちかねたようにパリから婚約者が、一年近くもの間壁を隔てて別れ別れになっていた多くの人々と同じように、まるで飛ぶような勢いで迎えにやって来たのだった。

 思えばまだ出会ったばかりの頃に引き離されてしまった二人なのだが、それでもその心に他の者への移り気を宿すことなく、いてもたってもいられない様子で彼女は、真っ先に恋人の元へ会いに来た。これこそまさに「奇跡的」なことだというのを、はたしてランベール自身は気づいていたのだろうか。


 彼の方はまだ、突然のペスト終息から意識を切り替えきることができていなかった。彼女を前にして自分の流す涙が、再会の喜びによるものなのか、あるいはここまでの日々の苦しみに対する思いから来ているのか自分自身でもわからぬまま、ランベールはただ黙って、自分の胸に飛び込んできた恋人のことを抱き寄せているばかりだった 

 ペストによって引き離されている間、どのような愛情も、その愛情の対象である家族や恋人たちも、しかしやはりただの観念にすぎなかった。拘禁状態から突如解き放たれた今、この目の前にいる人は、はたして自分が思い浮かべていた「あの人」なのか。この観念と現実は、はたして一致しているのか。それを強いて一致させなければならないほど、引き離されてしまっていたということなのだろうか。

 ペストはランベールの心のうちに、「一つの他念を植えつけてしまって」いた。自分はもう、ペストが始まったあの頃のように、何もかもを振り捨てて、ただ彼女の元へ飛んで帰りたいと思えるほど、今この者のことを愛しうるだろうか。自分はもう、ただ「愛する者のためだけに生きよう」などとは思いえない人間に、この数ヶ月のうちになってしまったのではないだろうか。自分はむしろ、かつて若かった頃のように、「観念のために生きる」ような者になってしまってはいないのだろうか。

 そんな疑念を打ち消す暇もなく、ペストの嵐は突然に止んだ。ランベールは、この思いがけない解放の「ゆっくり味わうすべもない火傷のような喜び」に戸惑い、すっかり「平静な心を失って」いたのだった。

 しかしともあれ、そのような疑念の正否を確認する時間は、今の自分にはまだ十分あるはずだ。そのような時間が与えられることを自分たちが「断念しなかった」からこそ、自分自身が幸福であろうとすることをもまた、断念せずにいられたのだ。そして、この目の前にある愛する者の顔を、何の留保もなく、また何の障壁もなく、こうして見つめていることができるのだ。少なくともそこにはもう、「壁」などというものは何もないのだから。

 ともかく今は、周囲の人々がしているように、自分もまたこの歓喜の熱に身を任せ、後のことは後のこととして考えようと、ランベールは思うのだった。


 そんなランベールがいよいよオランの地を離れるというその別れ際に、リウーは「しっかりやりなさい、今こそ正しい分別をしなければならない時だ」と、これまた何とも、文字通りに分別くさい餞の言葉を贈ったものだった。

 しかし、むしろこのときリウー自身が、そのような「分別」をもって対すべき相手を失ったばかりなのであった。だからこそと言うべきか、このときも彼は、もはや自らにおいてはどこにもやりどころのないその「望み」を、ランベールに再び託したい気持ちであったのかもしれない。


〈つづく〉

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