病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈20〉

 ペストの蔓延により、オランの市門が閉鎖されてから三週間ほど経ったある日、リウーの元へランベールが訪ねてくる。

 そのときランベールは、まだ知り合って間もない恋人をパリに残してきていた。彼はリウーに「自分がペストに罹患していないという証明書を出してほしい、自分はそれを携えてこの町を出たいのだ」と求める。それに対してリウーは、「同じ事情の者は他に大勢いるし、たとえ"今"罹患していなくても、すぐその後に罹患する可能性がある、よって証明書は出せない、これは決まりなのだ」と返答する。リウーの説得にランベールは次第に激昂し、「あなたの言葉は理性のものだ、あなたは抽象の世界にいるのだ」と反発する。そしてまた「あなたは公益のための職務と言うのだろうが、しかし公共の福祉とは、一人一人の幸福によって成り立っているのだ」と抗弁するのだった。

 ランベールが帰った後、彼から投げつけられた言葉を、リウーは心の中で反芻する。たしかに自分はこの状況下で、物事を抽象的に見、我が心を抽象化することで切り抜けてきた側面があるのだろうと、彼は胸の内で思い返すのだった。

 激情に駆られたランベールの、その思いのままの一言は、実にリウーの現状を鋭く言い当てており、彼はたしかに相手の言葉に心を射抜かれてはいた。しかしリウーはその言葉に対して、さらに心の中で反駁するのだった。人々一人一人が多様な姿を見せる幸福を、ただ一色に塗り潰してしまう、このペスト禍の抽象性。その抽象に抗うためには、こちら側も少なからず、抽象的に対さなければならない。そうでなければこれまで一体、自分はどうやって戦ってこれただろうか。リウーは苦い思いを噛みしめつつ、改めてそのように思うのだった。


 そもそもランベールとリウーが初めて対面したのは、ペストがほんの微かな兆しを見せ始めた頃であった。派遣記者であるランベールは、当地に住むアラビア人たちの衛生状態を取材するために、医師リウーの勤務する診療所を訪問してきたのだった。

 その折リウーはランベールに、相手からの質問には一言素っ気なく答えただけで、「それよりまず確認したいのは、あなたたち新聞記者とは一体どのくらい本当のこと、つまり真実を語っているのか、あるいはそれを語ることができるのか」と逆にランベールに尋ねた。そして、「自分は留保のない言葉、また腹蔵のない言葉しか認めるつもりはないのだ、あなたの言葉ははたして、そのようなものであることができるのか」とランベールに向かって言った。要するにリウーは、「自分は、この新聞記者を信用しているわけではない」と、言外に当の相手へ言っているのである。

 それに対してランベールが「それはまるでサン・ジュストのような言葉ですね」と、いささか皮肉めかして言葉を返す。するとリウーは「これは自分の暮している世界にうんざりしながら、しかしそれでもなお人間に愛着を持ち、自分自身に関する限り不正と譲歩を拒絶する決意に基づく言葉だ」と、けっしてその表情には出さないが、明らかに相手への反発の意思を込めた言葉でさらにやり返すのだった。

 こういういささか尖った言葉のやり取りの中でランベールは、後にリウーへ投げつける言葉として表現されることとなる、相手の意識の内に潜む「抽象」の観念を、すでにこのときいくらかは読み取っていたかのだったもしれない。


〈つづく〉

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