病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈31〉

 パヌルー神父によるオラン市民に向けた最初の説教は、「ペストを認識する上でも、それと闘う上でも、何ら役立つものはない」というように、リウーには思われた(※1)。いかにも彼らしい、素っ気のない評価である。

 とすれば逆にリウー自身が、これはたしかに「価値があるもの」として受け入れうるのだというように、何をもって判断するのだろうかと考えれば、それはやはり何らか「役に立つもの」なのだということになるのであろう。たとえばそれは「ペストという災厄に立ち向かっていくための具体的で実践的、かつ連帯的な救援活動」である、というように。

 これはまさしくリウーの「信念」によって引き出されてくる確信なのであるが、しかし彼はそのような「信念によって引き出される確信」というものを、パヌルーのそれと同様の心的構造に基づいて、自らもまた己れ自身のものとして抱いているのだということについては、不条理なまでになぜか思い至ることがないのである。こういった「想像力の欠如」というものは、いかにもリウーらしくもあり、また逆に彼らしからぬところでもあると言えよう。


 パヌルーによる最初の説教を聞いた感想をめぐって、タルーはリウーにこう訊ねる。

「…「あなたもやっぱりパヌルーのように考えてるんでしょう、ペストにもいい効能がある、人の眼を開かせ、考えざるをえなくさせる、っていうふうに?」

 医師はいらだたしげに頭を振った。

「それは、この世のあらゆる病気がそうだという意味でね。しかし、この世の不幸というものに関して事実であることは、ペストの場合にも事実です。それはある人々を大ならしめるために役立つことがあります。しかしながら、それがもたらす悲惨と苦痛とを見たら、それこそ気違いか、盲人か、卑怯者でない限り、ペストに対してあきらめるなどということはできないはずです」…」(※2)

 「ペストが人間の役に立つ」とは、リウーの立場としてはたしかに大っぴらには言いにくいことだろう。しかし、「ペストに対応するために、医学は役に立つことができるのだ」というのでならば、それは彼も声を大にして言えるだろうし、また言いたいところなのであろう。とにかく「役に立つ」ということがまず何よりも大事なことなのであり、彼はまさに医学をそのようなものとして「信じている」のだ。信じているからこそ彼は、それを「あきらめることができない」のである。自らと「逆の立場」にあると思われる者らを、「気違い」だの「卑怯者」だのと罵ってでも、彼は彼で自らの信念を貫くために「とことんまで行くつもり」でいるわけだ。


 医学そのものと、それに支えられている自らの職務への誠実さ。これをもし「信仰」と言いうるなら、リウーもまた熱心かつ「盲目的な信者」なのだとは言えないだろうか。

 自分たちにふりかかった困難な問題事に対して、現に自分のしていること、あるいはその能力、それがはたして本当に役立つものであるのかどうか。たしかにリウーも、直面したこの困難な状況の中において、幾度も自問自答したことだろう。そしてむしろ実際には、その答えは「否」であるという方向に、その信念に反して気持ちが傾くということの方が多かっただろう。

 しかし、だからといって結局リウーは、「何もせずにはいられなかった」だろう。それが何であれ、彼にもやはり信じているものがあるのだし、その信じていることを結局やり続けるしかないのだから。持続を支えるものとはやはり、どのような意味合いにおいてもある種の「信仰」しかないのだ。


 『ペスト』の作中、彼が中心となって活動する保健隊の、その仕事ぶりを「ヒロイズム」の観点から見ることを否定するリウーだったが、しかし反面、その隊の事務作業を一手に引き受け、幹事の役割を黙々と果たしていたグランの献身ぶりを、彼は記録の中で賞讃する。それはグランの、「ささやかな仕事によって、他の人々の役に立ちたいという美徳」を理由とするものだった。

 さらにそこへ付け足すなら、彼が手記を執筆するにあたってその一動機としたのは、「人間の中には、軽蔑すべきものより賞賛すべきものの方が多くあるということ、ただそのことを言うため」であったという。揚げ足を取るつもりはないが、もしその逆だったとしたら彼はペンを持つ気にもなれなかったというわけだ。

 一方「役に立つ」という論点については、タルーも時折持ち出している。彼はランベールやコタールを保健隊に勧誘する際、彼らが自分たちの活動の「役に立ってくれる」ことを期待するような言葉を相手に向かってかけている。

 タルーはまた、ランベールとの対話の際に「人間はどんな能力でも持ちうるように思う」といったことも語っている。このように見ても、実効性優先主義のリウーと同様、タルーにも潜在的に、いわば功利的な考えがあるのだと思われる。

 もし人が、神なき世界を「信じる」とするならば、結局のところこういう「人間の能力と実効性」に依拠しなければならなくなるのだ。「役に立つ」という一言が、彼らにとっての神なのである。


 出しゃばらず、エゴを押し通さず、ただ黙々と他の人々のために働き、その役に立っていること。それによって、人は人としてようやく人から認められ、あたかも聖人のように賞賛されるところとなる。

 逆にたとえばコタールのように、他人に貢献しようともせず、自らの立場や利得が守られることだけを優先しようとする者は、あたかも悪の権化であるかのように罵倒され、蛇蝎のごとく嫌われることになる。そういったことは、実に今も昔も、また世の東西を問わずまるで変わらない。しかしこれはもはや不条理ですらない、全くのところ欺瞞そのものなのである。


〈つづく〉


◎引用・参照

※1 宮田光雄「われ反抗す、ゆえにわれら在り−−カミュ『ペスト』を読む」

※2 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

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