病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈37〉

 自分がいかにして世の中の役に立つのかよりも、逆に世の中の方がどれほど自分のために役に立ってくれるものなのかということを、何よりもまず念頭に置く。そういった考えを持つ者というのは、実際の世の中においても少なからずいるはずであろう。むしろ「普通の人々」というのは、まずはそのような世間と自分との間にある利害の関係性について、当然自分の方に多く利があるよう算段をめぐらせるものなのではないだろうか。

 しかしこのペストの物語においては、そういう人物こそがまず第一に「悪」だとされることになる。そしてその典型となるのが、コタールなのである。

 タルーはリウーに、コタールについてこのように語っている。

「…あの男の唯一のほんとうの罪は、子供たちや人々を死なせたところのものを、心のなかで是認していたことだ。そのほかの点は、僕にも理解できる。しかし、これだけは、僕も許してやろうと、しいて思わなきゃならないんだ…」(※1)

 そしてまたリウーの方では、ペストをめぐる自らの手記において、その最後のエピソードとして敢えてコタールについて取り上げ、「この記録が、無知な、すなわち孤独な心を持つ彼のことをもって終わるのは、まさに当をえたことというべきである」としている。

 リウーは、悪について次のようにも言っている。

「…世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりもむしろ善良であり、そして真実のところ、そのことは間違いではない。しかし、彼らは多少とも無知であり、そしてそれがすなわち美徳あるいは悪徳と呼ばれるところのものなのであって、最も救いのない悪徳とは、自らすべてを知っていると信じ、そこで自ら人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳にほかならぬのである。殺人者の魂は盲目なのであり、ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない。…」(※2)

 「無知で孤独な心を持つこと」から引き出される、「強いて許してやる気持ちにならなければ、到底許すことのできない」ような罪。それは、他人の不幸を願い、それが実際に生じることを容認し、そしてその他人の不幸を我が身の幸福として置き替えようとすることであるとタルーやリウーは考え、それをもってコタールのことを容赦なく断罪するのであった。


 しかし人の罪というものはむしろ、その人が罪を為した後になってはじめて、彼のその行いが実は罪なのであったということが、はじめて彼自身においても知れるところのものとなるのではないだろうか。単純に言えば、人はまず誰かを殺してから「ああ、自分は人を殺してしまった」と認識することになる。もしこういう人間が実際にいたら、その者は少し馬鹿なのではないかというように思えてくるかもしれないが、逆に考えてみて、もし人を殺す前から自分は誰かを殺してしまったと「認識している」者があるとしたら、それはむしろ狂人であろう。ともあれ、人は事前から自らの為すことも、またその意味するところも知ることは叶わないのであるとすれば、たしかに罪人というものもまた、そもそも無知な者であるところにおいて罪を為すより他ない宿命にあるとも言えるのだろう。


 あるいは、たとえばもし病を悪だとするのならば、たしかにその病は何らかの罪に基づく罰として、与えられたものなのだという考えもまた成り立つこともあるのだろう。しかし、本当に病は罪の結果なのか。

 自ら意図して病む人間など、世にほとんどおるまい。人間というものは、自身の病の原因をほとんど知ることはできないのである。自分は健康だと思い、常から健康な人間として振る舞いながら、しかし実のところ人間は、自身でいつの間にか病んでいるものなのだ。そこにもし罪があるのだとしたら、まさにそれを「知らない」ということになるはずなのだが、しかしその罪を知ることになるのもやはり、たいがいは自身が病んでから後にならざるをえないのである。病むにしても罪を為すにしても、いずれにせよ人とはまず「無知なる者」の立場から、それをはじめていかなければならないようだ。 


〈つづく〉


◎引用・参照

※1 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

※2 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

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