病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈2〉

 カミュの『ペスト』は、よくデフォーの同名作品と対比される。しかし、デフォーのそれはまさに「ペストそのもの」について語っているのに対し、カミュの作品はやはり、あくまでもモチーフなりメタファーとしてのペストなのだ。

 カミュ自身は、この作品冒頭のエピグラムからも察せられるように、デフォーの作品からで言えばむしろ『ロビンソン・クルーソー』の方に、大きなインスピレーションを得ているのだと見られる。

「…『ロビンソン』第三巻にあるデフォーの序文と比べてみること。ロビンソン・クルーソーの生活やかずかずの驚くべき冒険を前にした真面目な省察。《或る種の囚われの常態を、もう一つ別のそうした常態で描いてみることは、実際に存在するなにか或るものを、存在しないなにかで描いてみせるのと同様に理屈のあることだ。もし私が、一人の男の個人的な物語を書くのに当り前の方法をとったとしたら……私がそのとき語るすべては、諸君になんの気晴らしも与えぬだろう……》…」(※1)

 カミュはデフォーから一体どのようなインスピレーションを得て、この『ペスト』という作品において、まずは何を反映させて語ろうとしていたのか。上記引用から察するに、それはまさに「或る種の囚われの状態」ということなのではなかったか。

 とすればそれがどういった種類の囚われの状態であるのかが、一般的にこの作品を読むにあたって一つの焦点にもなっていくわけなのだろう。

 

 カミュはそもそもこの小説を『ペスト』と題するつもりはなかったのだと、宮田光雄は言っている。

「…カミュは、『ペスト』の着想を得た当初、それに『拘禁者たち』という題名をあたえていたという。仮構された《ペスト》は、現実に生じた拘禁状態を象徴するものだったのだ。一九四〇年代に『ペスト』を手にしたフランスの読者は、ただちに身近に体験した戦争と占領とを思い浮かべざるをえなかったことであろう。…」(※2)

 カミュ自身も、その創作ノートにこのように記している。

「…小説。《ペスト》を題名にしてはならない。そうではなくて、たとえば《囚人》といったような題だ。…」(※3)

 カミュ自身としては、むしろペストという具体的かつ人々の中にあまりに印象が強く残り過ぎている病のモチーフに、本来書きたかった主題が引きずられてしまうのを避けたい思いがあったのかもしれない。

 そしてここでもまた、「囚人」という言葉が出てくる。そのことから類推すると、この作品を執筆していくのにあたり、それが「どういった種類の囚われ状態」であるのかというよりも、むしろカミュにとって「囚われの状態そのもの」が重要な論点であったのかもしれないと考えることもできる。


 あらためて、アルベール・カミュの長編小説『ペスト』が発表されたのは、第二次世界大戦終結後の一九四七年六月のことである。

 だが三八年頃にはすでに、彼の創作ノートには作品のモチーフがメモ書きされており、本文原稿自体も四五年頃までには大部分書き進められていたと推定される。もしカミュが『ペスト』を戦争の暗喩として書いたのだとしても、それはけっして架空の戦争や過去にあった歴史上の戦争などではなく、あくまでもまさに今ここで現に戦われている「この戦争」のことなのである。

「…人びとは一体どこに戦争が−−戦争の下劣さがあるのだろうと考えていた。そしていまでは、それがどこにあるのか知っていることに気がついている。つまり、それが各自のなかにあることに−−言いかえれば、たいていのひとにとってはそれはある種の当惑であり、選ばねばならぬ義務であることに気がついている。…」(※4)

「…戦争はついそこに、まったくついそこにある。これまでわれわれは、青空や世界の無関心にそれを尋ねていた。それはいまや、戦闘員であると非戦闘員を問わず、彼らの怖ろしい孤独のなかに、みんなに共通な屈辱的な絶望のなかに、また、時日がたつとともに人びとの顔にあらわれる卑屈さのなかにひそんでいるのだ。獣どもの支配がはじまった。…」(※5)

「…ぼくはペストを使って、われわれみんなが耐えてきた窒息状態と、われわれがそのなかで生きてきた威嚇と亡命の様相を表現してみたい。同時にぼくは、こうした解釈を、一般的な存在の観念に拡張してみたい。ペストは、この戦争で、熟慮し、沈黙し−−精神的に苦しんだ人びとの姿を語ってくれるだろう。…」(※6)

 しかし、もし本当にこの作品が戦争やナチズムと、それに対するレジスタンス活動のメタファーとして書かれたものであるとすれば、その限りとしてこの作品は、実は「失敗作」だったとも言えるのではないか。カミュはむしろ、ある意味では彼自身としても意図せずに、「それ以上」の何かをこの『ペスト』という希代の作品において描いてしまったのではないだろうか。


〈つづく〉


◎引用・参照

※1 カミュ「手帖2−反抗の論理」高畠正明訳

※2 宮田光雄「われ反抗す、ゆえにわれら在り−−カミュ『ペスト』を読む」

※3 カミュ「手帖2−反抗の論理」高畠正明訳

※4 カミュ「手帖1−太陽の讃歌」高畠正明訳

※5 カミュ「手帖1−太陽の讃歌」高畠正明訳

※6 カミュ「手帖2−反抗の論理」高畠正明訳


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