病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈17〉

 妻のジャーヌが出奔してからというもの、一人きりの孤独で侘しい生活を余儀なくされる中、グランは市庁舎での職務とは別に「自分自身のための仕事」を見つけ、少しでも空いた時間があれば、その作業に没頭する日々を送るようになった。その「仕事」とはどうやら、何か物語を書くというようなものらしかったが、しかしそれが実際どれだけ出来上がっているのかといえば、リウーがその原稿を見せてもらったところ、グランは書き出しの部分を何度も何度も手直ししているばかりで、なかなかそこから先には進まないのだった。ここでもまた顕わになるのは、彼特有の「言葉の的確さの問題」であり、「言い回しの問題」なのだった。

 グランは、いずれこの作品を出版社に持ち込んで、そしてそこに居合わせた社員たちが、「一同、脱帽!」と彼に向かって最敬礼するというような、望みであり夢をリウーに語って聞かせた。そしてそのためには「自分の想像に描いている画面を完全に写し出すことに成功」して、「目に見えるような情景が冒頭から鮮やか」であることが重要なのだ、「それは完璧なものでなきゃ」ならないのだ、と。

 グランがそのような「自分の仕事」に没頭し、その成果に完璧さを自ら求めるのは、一体どういうわけだったのだろうか。実は、彼が自身の結婚生活にまつわる身の上話をリウーに告白したとき、いつかは別れた妻に手紙を書くつもりなのだということも、合わせて相手に語っている。おそらくグランの「文章修行」とは、むしろそのことこそが主な目的だったのだろう。出て行った妻に、自分はそのとき一体どのようなことを思っていたのかを釈明するために、そして、今はもう何も後悔せず、ただ幸福に暮らしていてほしいと相手に伝えるために。そのために「必要となる完璧な言葉」を捜すことが、彼にとっての「自分自身のための仕事」だったのだろう。


 クリスマスにペストを発症したグランは、病院には移送されず自宅のベッドに寝かされ、リウーとタルーによる看護を受けることとなった。それは、家族のない仲間への、医師からのせめてもの配慮だった。

 病の苦しみに朦朧としながらグランはリウーに、引き出しから書きかけの原稿を持ってきて、それを読み上げてくれるよう頼んだ。五十枚ばかりのその原稿はやはり、ただひたすら例の物語の冒頭部分が、繰り返し書き直された跡が残るばかりのものだった。そしてその最後のページには、その時点でまとまった文章が清書されており、それとはまた別に、まだ新しいインクによる丹念な筆跡で、次のような言葉が記されてあった。「なつかしいジャーヌ、今日はクリスマスだ」。

 リウーが物語の冒頭部分を読み上げて聞かせると、グランは強い口調でその原稿を焼き捨てるよう求めた。リウーは躊躇したが、グランの決意に気圧されるように、手にしたその紙の束を暖炉に投げ入れた。


 朝まではもたないだろうと思われたグランの病状だったが、しかし翌朝リウーがその様子を見に行ってみると、何と彼は起き上がって、ケロッとした様子でタルーと談笑しているのだった。

 そしてこの、グランの身に起こった「不可解な回復」こそ、実にオランにおけるペスト収束のはじまりを告げるものでもあったのである。


〈つづく〉

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