病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈12〉
「個人的不条理から集団的不条理への展開」という論点に戻ろう。カミュの長編評論『反抗的人間』から、彼の思想を象徴する一文を取り上げてみる。
「…不条理の体験では、苦悩は個人的なものである。反抗的行動がはじまると、それは集団的であるという意識を持ち、それが万人の冒険となる。だから、自分が異邦人であるという意識にとらえられた精神の最初の進歩は、この意識を万人とわけ合っているのだということをみとめ、人間的現実は、その完全性のなかにあっても、自己と世界とを引き離す距離に悩むものだということをみとめることにある。一個人を苦しめていた病気が、集団的ペストとなる。われわれのものである日々の苦難のなかにあって、反抗は思考の領域における「われ思う(コギト)」と同一の役割を果す。反抗が第一の明証となるのである。しかし、この明証は個人を孤独から引きだす。反抗は、すべての人間に、最初の価値をつくらせる共通の態度である。われ反抗す、故にわれら在り。…」(※1)
個人の不幸や病は実感的であり、それはまさに各々個人の身体と、その生存期間に限定されたものとして成立する。一方で集団的・社会的な不幸や病は、多分に「ムード」的なものであり、往々にして実感や具体性の意識は乏しく、むしろそれゆえに時間的・空間的な制約を越えて成立するかのようにさえ思われるところがある。そしてそれが人々の間で広範に遍く浸透すれば、そのような「空気」があたかも「自然」であるようにさえ感じられてき、むしろその時間・空間の中で、「限定的・例外的」に不幸でも病でもない者らは、かえってそのことによってそれ自体が不幸であり、かつ病であるかのように見なされかねない事態ともなる。
あたかも誰もが、名前も時間も超越して一体化しているかと思われるような「集団的世界」の中で、そういった「例外的」な者たちは、その一体化した世界から否応もなく分割分離されて、それぞれ強制的に名を与えられ、その生存期間を強制的に区切られる。つまり彼は世界から、「無縁な者として孤立させられる」ことなるのだ。それこそまさに、集団的な意味においても個別的な意味においても不条理なことなのである。
そのような不条理を乗り越えようというのならば、まずは病や不幸といったものを、「個別的」なものとして改めて還元し直さなければならないだろう。どれほど「多くの数」の人々が病み、そのことによって「皆同じような」不幸に見舞われていても、そのように「実際に病み、不幸である」のは、何よりもまず「この、一人一人のわれ」なのだ。まずはその「感覚」を取り戻すことからはじめなくてはならない。
集団の中で、世界の中で、「万人」の中で、「このわれ」が忘れられ見捨てられている実感ほど、孤独で苦しく不幸なこともないだろう。その孤独と苦しみ、不幸を実感しているのは、何よりもまず「このわれ」であるということ。まずはそこからはじめることだ。そこから、「このような意識を、まさにこの私が万人と分け合っているのだ」ということが、いや「分け合いうるのだ」ということが、誰もがそれぞれ、いや言うなら「万人」がそれぞれ、そのように実感する資格と権利を有して、まさに現にこの世界を生きているのだという意識、これがようやくはじめて、「このわれ」において認められうるのだ。
はじめから「われら」などというものがあるわけではない。そこに到りたいというのであれば何よりもまず、それぞれの「このわれ」の感覚から、まさしくその実感からはじめていくべきものなのではないか。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 カミュ「反抗的人間」佐藤朔・白井浩司訳
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