病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈48〉

 生まれ育った家を飛び出し、おそらくは非合法と思われる政治活動に加わって、ヨーロッパ中を飛び回っていたタルーであったが、そんなあるとき、組織内の規律を犯した同志を粛清するために死刑が執り行われることになり、彼はその一部始終を目撃することとなった。「裏切り者」を至近距離に置き、銃を構えた数人の者が一斉にその心臓を目がけて射撃すると、亡骸にはこぶし大の穴が開いた。

「…とうとうある日、僕は一つの処刑を見たのだ(それはハンガリアでのことだった)。そうして、かつて少年の僕を襲ったと同じ眩暈に襲われて、大人になった僕の眼も真っ暗にかすんでしまった。

 君は人間を銃殺するところを見たことはないだろうね?いや、ないにきまっている。(…中略…)目隠し、処刑柱、それから遠くに幾人かの兵隊……。ところが、どうして、そんなもんじゃない!君は知ってるかい−−銃殺班は、それどころか、処刑者から一メートル五〇のところに並ぶんだぜ。処刑者が二歩前に出たら、銃口が胸にぶっつかるくらいなんだぜ。そんな近距離から、銃手たちは心臓部めがけて射撃を集中するので、それがみんな一緒になって、しかも大きな弾丸だし、それこそ握り拳がはいるぐらいの穴がそこにできるんだぜ。まったく、君はそんなことを知りゃしない。そういう細かい点は誰も話そうとしないからだ。…」(※1)

 そしてタルーは、やはりこのときにおいても、自分自身の抱える「心の病気」の原点を、否応なく思い出さずにいられなかったのであった。

「…それはあの赤毛の梟だった。あのいやらしい事件−−毒をもったいやらしい口が、鎖に縛られてる男に向って、お前は死ぬのだと宣告し、そしてその男が幾夜も幾夜も苦悶の夜を過しながら、はっきり正気のまま殺害されるのを待ち続けたあげく、実際そのとおりに死ぬようにすべての手順を整えた−−あのいやらしい事件だったのだ。僕の問題というのは、つまりあの胸にあいた穴だったのだ。…」(※2)

 処刑された者の胸に開いた、銃撃によるその大きな穴はまた、タルーの心の内をも穿っていた。その穴というのはまた、その先に何も見通すことのできない闇深い虚無の穴なのでもあった。


 そしてタルーはそのとき、「自分は我知らずしてこれまでも、何千という人間の死に間接に同意していたということ、また、不可避的にそういう死を引き起こすものであった行為や原理を、善であると認めることによって、むしろそのような死を挑発さえもしていたということ」に思い至る。つまり彼は少年時代に見たあの裁判で、被告人が死刑に処せられるべきであると宣言した父親と、今のこの自分自身が全く同じ場所に立っているのだということを、この粛清劇を目の当たりにすることで、痛切に自覚させられていたのだった。

「…それからずいぶん長い間、僕は恥ずかしく思っていたものだ。たといきわめて間接的であったにしろ、また善意の意図からにせよ、今度は自分が殺害者の側にまわっていたということが、死ぬほど恥ずかしかった。…」(※3)

 タルーは、自分自身のこの「のどにつかえているような気持ち」を同志たちに告げる。人を裁き、断罪し、死に追いやる。この無惨な虐殺とも言えるような行為を、しかし自分たちの目的を達成するためには必要なことなのだとして受け入れてしまっている限りは、あの「赤い法服」に象徴される、今まさに自分たちが「敵と見なしている側」の連中がしている行為を、自分たちもまた同様にそれを是として受け入れていることとなり、そしてそのことをもはや、自分たちではけっして否認することができなくなる。そのように「一度譲歩してしまったら、もう途中で立ち止る理由はないのだ」と、タルーは仲間たちに翻意を呼びかけた。

 しかし、他の者らはタルーに対して、もし敵にそのような「人を裁き、然るべき刑に処する権利」を独占させておくならば、むしろそれこそ自分たちより相手の方が正しいのだということを、自分たち自身で認めてしまうことになるのだと、タルーが促す方針転換の提案を頑として拒絶するのだった。こうして、同志たちとの議論はただ並行線を辿るばかりのものとなり、やがてタルーは、「彼らと共にありながら、しかも一人ぽっち」となってしまった。


〈つづく〉


◎引用・参照

※1 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

※2 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

※3 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

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