病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈55〉
「うちに置いてあげようよ、ベルナール」という、母からのたっての懇願もあり、リウーは、タルーを病院には移送せずにそのまま家に置き、親子二人して病人の看病をすることにした。
肺とリンパの二つの種類のペストに冒されているらしいタルーの病状は、リウーの想定通りに苛烈を極めた。リウー母子は、一晩中病人の傍らに寄り添い、その闘病の様子を静かに見守った。
タルーは、自身の宣言通り「あらんかぎりの重厚さと、あらんかぎりの沈黙をもって」、自らの身体を容赦なく蝕む、「現実のペスト」の諸症状と戦っていた。そして、その様子を息を呑むように見つめる母子に対しては、時折「非常な努力をしながら、精一杯の微笑みを返して」やるのだった。
しかしリウーが、タルー自身として感じている我が身の具合について尋ねてみると、彼はやはりこう言わざるをえなかった、「どうやら、この勝負は負けつつあるようだ」と。
その夜は何とかタルーの病状も持ち堪え、朝方になるとリウーと母は、少しだけ交替に休みを取ることにした。リウーが、うたた寝もままならないような落ち着かない休息から戻ってみると、彼の母が病人の乱れた枕をかいがいしく直してやっていた。さらにまた、高熱の汗に濡れたタルーの髪に、母がそっと手を当てている様子をリウーは見た。それに対して病人の方からは、彼女のその労りに素直な感謝の言葉が述べられていた。そして、「今こそすべてはよいのだ」と、誰に言うでもなく、それでも余力を振り絞るようにしてつぶやいた声が、消え入りそうに微かな音によってリウーの耳に聞かれたのであった。
タルーが、その手記の終盤に書き記したさまざまな「個人的考察」の中には、同居するようになってからのリウーの母に関する記事もあった。慎ましく善良なその人柄に、彼は自らの母親のかつての姿を重ねて見ていたのだった。そして、リウーの表現で言えば「たゆたうような」筆使いで、「母こそ自分がその境地に達したいと思ってきた人だ。亡くなった今でも、彼女はただいつもより少しだけ余計に自分を目立たせないようにしているだけなのだと思える」という文言もそこには書き残されていた。
自らの身体を襲ったペストとの戦いに疲れ果て、もはや意識も定かでなくなりつつあった頭をそっと撫でられたタルーは、その優しい手の感触に、まさに母の幻影を見たのだろう。そして、「今こそ全ては善いのだ」という、実質的に彼による最後となったその言葉は、たとえ幻であれ再び母の懐に辿り着き、ようやく「心の平和」を見出したことによる安堵の思いからでもあったのだろう。
タルーはたしかに、自身の願ったような「聖者」には、やはりなりえはしなかったのではあったが、それでもともかく、かつてのごく平凡だった十七歳の頃よりも、さらにずっと以前と同様に、彼は単なる「我が母の子供」に帰ることができたのだったろう、せめてそのときくらいはきっと。
その昼頃から、タルーの状態はいよいよ終局の様相を見せはじめた。病人はついに、激しい咳と共に口から血を吐き出しては、しきりに身体を痙攣させて、その意識はますます遠のいていった。
あたかも暴風雨にさらされた難破船のように、生の岸辺から今まさに引き離され、ペストの闇深い海中に没しようとするその有様を前に、波打ち際でただ一人取り残されたリウーは、ただただ自身の無力さに打ちのめされるより他なかった。時化る荒波に隔てられて、二人は互いに最も遠い場所で、別れ別れに引き離されていた。リウーの瞳からは涙が止めどもなく流れ、もはや友の最後の戦いを見ることさえできなくなっていた。
やがてタルーは呻き声を上げると、死の壁の方に向き直り、そしてとうとう息絶えたのだった。友の戦いの果ての沈黙に、リウーは自分自身の戦いもまた、完全なる敗北に終わったことを実感する。窓の外の喧騒が、ペストからの解放を伝えてくるのを聞きながら、しかし少なくとも自分には、もはや本当の意味での平和など訪れようもないのだと、彼はむなしくも思わざるをえないのだった。
そしてタルーの弔いを済ませたその朝、リウーはさらに妻の死を知らせる電報を、しかし思いのほか平静な心持ちにおいて受け取っていた。ペストに振り回された苦しい日々と、その果てに訪れた友の死によって、図らずも彼にはそれを受け入れる「心構え」が、我知らずうちすでにできていたわけなのであった。
〈つづく〉
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