La Pioggia nera 2
俺たちは亡くなったお父さんを孝太郎さん、と呼んで父親のように慕っていた。
俺たちが出会ったのは、この店の、ちょうどこの席だった。
五年前、この店は「La Pioggia nera」という名で、もう少し本格的なイタリア料理を提供するレストランバーだった。
今のマスターの祖父が店をやっていたころだ。
メンバーのケイタが学生時代にアルバイトをしていた縁で、バンドの溜り場として店の隅によく居させてもらっていた。
混雑した時には俺たちも店を手伝ったりしていたけれど、よく練習に使っていたスタジオが近くて便利だったというのもある。
当時の俺たちはやっとの思いでインディーズからCDを出したしたものの全く売れず、仕事もなく将来には大きな不安を抱えて毎日鬱々とした日を過ごしていた。
その日もスタジオを出てから遊びに行く金もなく、この店の隅で安酒を舐めていた。
一月か二月の寒い日だったように思う。何人かいた常連客も帰り静かになったころ、孝太郎さんが一人で店に入ってきた。
当時は朝まで店を開けていたので、電車がなくなった後にやって来ては朝まで飲んで帰る客も多かった。
孝太郎さんもそんな客の一人で、時々店に来ていたらしい。俺たちが会ったのは、その夜が初めてだった。
孝太郎さんは仕事帰りらしく、入口で黒いコートを脱ぐと同じように地味な黒いスーツ姿だった。
どこかでしたたかに飲んできたのか、打ちのめされたボクサーのように重く疲れ切った足取りで俺たちとは反対側の隅に崩れるように腰を下ろして一人で飲んでいた。
そのうち何かの拍子で俺たちの存在に気付いたのか、みじめな様子を見るに見かねて酒と食い物を奢ってくれたのがきっかけだった。
それから俺たちの隣へ座って少しずつ話を聞いてくれて、気が付けば四人で肩を寄せ合い真剣に語り合っていた。
話してみると、孝太郎さんはそれ程酔っているわけでもなく、俺たちみたいなチンピラを相手に偉ぶりもせず、自分の友達のように接してくれた。
その時、孝太郎さんは奥さんを病気で失ったばかりだと聞いた。どうりで、ずいぶん弱っているように見えた。
孝太郎さんには俺たちと同じくらいの年頃の子供がいると言っていたが、きっといい親父さんだったんだろうな。
俺たちが三人で音楽を始めたきっかけや、停滞している状況、これから目指す音楽なんかについて、まじめな顔でよく聞いてくれた。
孝太郎さんも若いころに好きだったストーンズやディープパープルの話なんかをしていたっけ。
話しているうちに俺たち自身も自分たちのするべきことがはっきり見えてきたような気がして、久しぶりに目の前が明るくなった。
そのころの俺たちは、音楽が好きというよりも、音楽をやっている自分たちが好きだったんだ。
だから外見や他人の評価ばかりに一喜一憂しながら、結局自分に酔っていたんだな。
しかし孝太郎さんと話しているうちに、音楽を始めたころの気持ちを思い出した。
孝太郎さんが好きだった音楽を語る時の純粋な目を見ていると、夢中だったあの頃に俺たちも帰ったような気がして、本当に楽しかった。
まさにあの瞬間が、俺たちの再スタートになったんだ。
何時間話していたのか、もう朝も近いんじゃないかと思えるくらいの時間に、孝太郎さんがトイレに行ったきり戻らないので、ナオキが様子を見に行った。
ほら、そこの非常口の脇にある階段を下りたところにトイレがあるんだ。
しかし、トイレには誰もいなかった。地下へ降りるにはこの階段しかないし、脇の非常口は重たい鉄扉で開けると大きな音がして北風が吹き込む。
だからきっと、まだ下にいるはずだ。俺たちは心配になって、三人揃ってそこの急な石段を降りて行った。
階段を降りたところがトイレで、その時は電気がついたまま扉が半分開いていた。
その先に暗い廊下が延びていて、地下室の石壁に木の扉が二つ見える。ケイタが言うには、奥の大扉はワインや食材を置く倉庫になっているが、手前の扉はいつも鍵が閉まっていて開けたことがないらしい。
とりあえずその手前の扉の前まで行きドアのノブを回すと、かちりとロックの外れる音がした。
なぜかその日は鍵がかかっていなかった。
そこで俺が扉を引こうとすると、それより先に嫌な軋み音を立てて中から扉が開いた。部屋の中から飛び出てきたのは孝太郎さんだった。
孝太郎さんは戸口で驚いたように大きな声を上げたが、同時に開いた扉からケイタが中へ押し入った。
そこは狭い石造りの地下室で、天井から裸電球がぶら下がり、黄色い光を投げている。
孝太郎さんはダメだ、と言いながら部屋の中を振り返るが、ケイタの後を追って部屋へ入ろうとする俺たち二人に逆に押されて、結局もう一度部屋の中へ戻る羽目になった。
石壁に囲まれた部屋の中は、黴臭く生暖かい空気が不快だった。
孝太郎さんは振り向いて、大きな声で、扉を閉めるな、と怒鳴った。俺たち三人も扉を振り返るが、扉がゆっくりと動き、バタンと音を立て閉まると同時に、明かりが消えて闇に包まれた。
ああ、と孝太郎さんの悲痛な声が暗闇に響いた。その理由の一端を知るのは、もう一度地下室の扉を開けてからだった。
俺たちが手探りで地下室の扉に戻りそれを開くと、妙に薄明るい廊下が見えた。
以前にいた廊下とは、見た目も空気感も、明らかに違う。
孝太郎さんがもう一度、声にならない深いため息をついた。
西洋の石畳のような乾燥した床で、周囲は黴臭い不快な空気に包まれた。
その時になって、孝太郎さんが上着とYシャツを脱いで、半袖の下着姿であることに気付いた。俺たちは光を求めて廊下へ出て、不揃いな石段を昇った。
階段を上がると、そこには店がなかった。後から登ってきた孝太郎さんが、ダメだとつぶやき小さく舌打ちをした。そこは俺たちが見たことのない場所だった。
俺たちがいたのは、石造りの薄明るい建物の中だ。
埃が積もった部屋は何年も使われていない廃屋そのもので、壊れた木箱や割れた瀬戸物が散乱して腰を下ろす場所もない。
扉と窓の目張りがところど所々剥がれて、外の明るい光が差し込んでいる。
破れた窓から風が吹き込んだのか部屋の中は埃が舞い上がり、窓からの白い光線が幾筋かくっきりと見えていた。
いつの間にか夜は明けていた。
呆然と立ち尽くす俺たちに、しばらくここを動かないように、と有無を言わせぬ口調で一言残して、孝太郎さんは部屋の裏口らしき重そうな木戸を開けて外へ出て、丁寧にまた戸口を閉めた。
まるでこの場所をよく知っているような、迷いのない動きだった。
俺たちは部屋の中に残り、立ち尽くしたまま周囲を見た。
部屋の中は積み上げられたがらくたに厚く埃が被り、何年も放置された物置小屋のようだ。
窓ガラスは戸板と紙の目張りで塞がれているが、あちこちで破れて、隙間から建物の外に広がる濃い緑が見える。
夢でも見ているようだった。
少し飲みすぎたんじゃないかと三人で顔を見合わせて、乾いた笑いを浮かべていた。
そのうちガタピシと裏の木戸が再び開く音がして、孝太郎さんが戻ってきた。そして青い顔でちょっと一緒に来てほしいと言われた。
黙って歩く孝太郎さんの後に付いて建物の裏に出ると、まぶしい光に目がくらんだ。
すぐに、全身がねばつく熱気にからめ取られて汗が噴き出る。散らばる瓦礫と腰まで繁る雑草で、歩くのも楽ではない。
隣接する崩れかかった木造家屋との間の狭い通路を辿りやっと一〇メートルほど行くと、向かいに並ぶ建物の間に少しの隙間があった。
そこで孝太郎さんは立ち止まり、周囲を埋め尽くす木立の間に開けた空の一点を指差した。
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