結城亭 3


 その姉弟と松田と共に招待されている、本日の夕食会だ。


 招待状には何も聞かずに来てほしいと記されていて、一年前に松田と会った時のような不思議さに包まれて、沙織が出かけない理由はない。


 店の和菓子を手土産に、指定の時刻に到着するように、ゑびすという店へ向かった。


 明るく晴れた秋の一日であったが、夕日が落ちると冷たい風が頬を刺し、冬の近さを感じる。


 ゑびすは町外れにある小さな居酒屋で、店に入ると既に松田と結城亭の姉弟が席に着いていて、賑やかに話している。


 店内はコの字型のカウンター席だけの簡素な造りで、奥の厨房では既に料理の仕込みをしている人の気配があった。


 その後も松田は時折結城亭を訪れていたようだが、店で沙織と会うことはなかった。


 一年ぶりの非礼を詫びて、沙織も丸椅子に腰を下ろした。


 カウンターの中にいるのは田舎の酒場には似合わぬ上品な白髪の女性で、松田はお母さんと親し気に呼んでいる。


 沙織が手土産を差し出すと恐縮していたが、勤め先の品物であると知ると喜び笑顔で受け取り、厨房の奥へ声を掛けた。


 呼び声に応えて奥から出てきた痩せた老人がこの店の主人で、同じように松田がお父さんと呼ぶ。ゑびすは二人で切り盛りする店らしい。


 お父さんは、今日は貸し切りで特別な料理を用意しているので、四人でくつろいでほしいと簡単に挨拶をすると、厨房へ戻った。


 ほどなくして、最初の料理が運ばれた。


 小鉢に盛られた突き出しというより、しっかりした日本料理の先付の趣だ。


 ほの甘く味付けされたクルミの蜜がかかった胡麻豆腐である。これが驚くほど濃厚かつ繊細な味と香りの加減で、信じられないほどの美味しさだ。


 あまりの出来に驚いていると、奥からお父さんとは違う一人の老人が現れた。


「おじいちゃんっ!」


 結城亭の姉弟が声を合わせて叫ぶ。小柄な老人は痩せてはいるが背筋がしゃんと伸びて顔色も良く、何よりも穏やかな瞳の奥に炎のような力強さを秘めている。


 昔気質の職人の面構えだと、沙織は自分の勤める店のベテラン和菓子職人の風貌を思い出す。


「おじいちゃん、大丈夫なの?」


 姉弟の心配する声に優しい笑顔を向けて、しっかりと頷く。


「ああ、最近調子がいいんで、ちょっと厨房を借りて御馳走をしようと思ってな。今日はゆっくり食べて行ってくれ」


 そして老人は沙織と松田に向かい頭を下げる。


「初めまして、結城と申します。いつも息子と孫がお世話になっています。今日は久しぶりに板場に立ちますが、精一杯の料理を作らせていただきます。どうか最後までお楽しみいただけるとありがたいです」


 思わず松田が立ち上がり、感動に上ずった声を上げる。


「今日はお招きいただき、ありがとうございます。まさか、結城さんのお料理をいただけるなんて、夢のようです」


 沙織も訳が分からぬまま立ち上がり、松田と並んで礼をする。


「いや、今日はそんな畏まった場じゃないんで、気楽に召し上がってください。ただ、いつもせがれのインチキ料理に舌を汚していらっしゃる皆様に、本物の結城の料理を味わっていただければと思い、やってまいりました」


 一礼して、老人は厨房へ消えた。


「祖父はこの数年体が弱り自宅療養をしていましたが、この夏には体調を崩して入院しているんです。でも今日は顔色も良くて、具合はとても良いみたい」


 姉が言うと、弟も目を輝かせる。


「じいちゃんの作る料理はあまり覚えていないんで、今日は楽しみだね」


 二人は顔を見合わせて喜んでいる。


「あのお方は日本有数の料理人で、マスコミ嫌いで取材に一切応じなかったので一部の好事家にしか知られていませんが、伝説上の人物ですよ」


 小声で説明する松田の言葉に、三人は息を吞んだ。


 お母さんが運んで来た次の品に箸をつけると、松田の言葉がより一層の重みを持つ。

 圧倒的に存在感のある料理に四人は圧倒され、本物の持つ力を思い知る。


 この凄まじいばかりの腕を持つ料理人を父親に持った今の結城亭の主人のことを思うと、沙織は絶望的な気持ちになる。


 沙織の働く和菓子店にも一人だけ飛び抜けた職人がいて、誰にも真似のできない菓子を作っている。


 だがそれは一般には知られることなく、極めて一部の上得意先にしか出回らない。


 半年働いているうちに、沙織は理解した。老舗の暖簾を守るために必要なのはそういった特殊な偉人ではなく、同じ味を毎日作り続ける普通の職人たちだ。


 時折現れる天才、あるいは芸術家とも言える特別な人物が考案した斬新な味を下敷きにして、店に並ぶ品を毎日作るのが、その他大勢の職人群の存在だ。


 だが、父から子へと受け継がれる料理屋で、日本中から称賛を浴びる飛びぬけた親から店を受け継ぐたった一人の子は、その才能の有無に関わらず、いったいどれだけの困難に直面するのだろうか。

 あまりにも残酷な宿命である。


 ところが、現実にはその不幸な息子は父親とは全く違うアプローチで時代に合った店を造り出し、繁盛させている。


 父親のような煌きはないが、同じ看板の元で、安い料金で何度も食べたいと思う料理を作り続けることは、容易ではない。そこへ至るまでの苦労が忍ばれる。


 そのことを二人の姉弟といつか話したいと思いながら、今日は目の前の特別な味に没頭しようと沙織は思う。


 次々と宝石のように煌く料理を味わい尽くして、抜け殻のようになって四人は最後の熱い緑茶を啜っていた。


 奥から結城翁が登場し、お粗末様でしたと頭を下げる。


 言葉もなく、腰が抜けたように動けぬ沙織と松田に一礼すると、老人は二人の孫に向かい、今日の秋空のように曇りのない表情を浮かべ、これがおじいちゃんの精一杯の料理だ、と言って破顔する。


「すごいよ。こんな料理初めて食べた。僕も、いつかこんな料理が作れるようになりたい。おじいちゃん、教えてよ」


 弟が感極まったように言う。


「すごく、おいしかった。また、作ってくれる?」


 姉は目を潤ませている。


 老人はただにこやかに、晴れやかにそれを聞いている。やがて、片付けがありますので、と呟いて厨房へ姿を消した。


  

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