結城亭 2


「本日は無理を聞いていただき、ありがとうございます。竹内さんの事故についてはあまりに突然のことで、まだ心の整理がつかないことと思います。そんな中、無神経に呼び出してしまい、本当に申し訳ないと思っています」


 松田は一度そこで言葉を切り、頭を深く下げた。


「でも、あなたが竹内さんの親友で、あの事故の日最後に会っていた人だと聞いて、ぜひ詳しい話を聞きたいと思いました」


「松田さんは、香澄とどういう関係の方なんですか。最初にそれを伺っておかないと、どんな話をしてよいものか、わかりません」


 沙織の表情からも、笑顔は消えている。極力事務的な口調に聞こえるよう努力して話しながら、松田の目を正面から見た。


「彼女が私の勤める会社に来春入社が内定していたことは、偶然なんです。私は、彼女のことを全く知りませんでした。ただ、最近一度だけ直接話をする機会があり、その時初めて色々なことを知りました。彼女がこの町に住んでいて、過去に何度か出会っていたということも含めて。でも残念ながら、それだけです」


「香澄が最近松田さんと会っていたことは初耳です。ですが、あなたと思しき人物については、香澄から何度か聞いたことがあります」


 沙織が松田に対して心を開けない理由の一つが、それだった。


 最後の晩、憧れていた男性と同じ会社に勤めることが決まり浮かれていた香澄は、まだ普通に言葉を交わしたこともない松田といつか話すことを夢見ていた。それは、明らかに今の松田の話と矛盾する。


「そうですか。実際、私自身も今更何を知りたいのか、よくわからないのです。ただ今夜は、差支えのない範囲で西本さんの知る竹内香澄さんのお話を聞かせていただければと思うのですが、いかがでしょう」


 沙織はここまで来た以上は、ことさら松田に対する不信感を表に出すべきではないと感じた。


 この店の姉弟と触合っていた松田に悪い印象はなく、先入観を排して向き合うべきなのだろう。


 言葉に詰まっている間に、ビールとお通しが卓上に並んだ。生ビールはジョッキではなく、背の高い上品なグラスに注がれていた。


 香澄の冥福を祈ってだのなんだのと余計なことを言おうものなら噛みついてやろうかと身構えていた沙織の期待を裏切るように、松田は伏し目がちに黙ってグラスを差し出した。


 沙織は軽くクラスを合わせて形だけビールに口を付けた。松田も同じようにしてグラスを置き、沙織を見た。


「ここは、私のお気に入りの店です。香澄さんをお連れできなかった分、せめてあなたに楽しんでいただければ幸いです。今日はよろしくお願いします」


 言い終わると無造作に小皿の栗をつまみ上げた。沙織も同じように箸を取り、黒い栗に手を伸ばす。


 それは大きめの天津甘栗を剥いたように見えたが、口にすると柔らかな味噌の風味が広がり、後から栗本来の甘さが追いかける。栗の味噌煮なのか味噌漬けなのか、食べたことのない味だった。


「今日は、精進料理にしました」

 松田が独り言のように言う。沙織は黙って頷いた。


「と言っても普段からあるベジタリアン向けのメニューを、ちょっとアレンジしてもらいました」


 それから二人は運ばれてくる料理を静かに口にした。コース料理は和食では見慣れぬ素材が上手く使われて独創的で、驚くほど美味しかった。


 対面してよく見ると、松田の顔色は蒼く、目の下の隈も色濃い。どう見ても、健康的ではない。


 だが、おそらく自分も、似たような顔をしているのだろうと、沙織は思う。


 香澄の葬儀以来、憔悴した沙織は人目を避けるようにひっそりと過ごしていた。こういう店に入るのも久しぶりである。


 二杯目のビールを頼むころに漸く松田の頬に赤みが差し、沙織も重い口を開いた。


「私は今、大学の四年生で、香澄とは三年半だけの付き合いでした。彼女とは日本の古代史を研究するサークルで一緒になり、国内にある沢山の遺跡を一緒に廻った仲です。彼女の住むアパートがこの街にあり、私の家は三つ手前の駅だったので、通学の時もよく一緒でした」


 それから沙織はサークルの活動を中心に香澄と二人で過ごした学生時代の思い出を淡々と話した。


 そして自分も香澄と同じように就職の内定を得て、来春の卒業を待つ身であることも。


 話すことで高まる喪失感により次第に言葉が途切れがちになり、感情を抑えて抑揚のない口調になるのは隠しようがなかった。


「西本さん、そろそろメインの料理です」


 見かねた松田が話題を変えて、手を上げて店員を呼ぶ。ちょうど近くに来ていた弟に日本酒を注文して、沙織のお酒の好みなどを尋ねた。


 弟がまた松田に他愛のない冗談を言って笑うのを聞きながら、沙織は心が少し軽くなったように感じていた。


 あの日以来、自分が生き残っていることに対する漠然とした罪悪感と、常に心の中にある喪失感とを当然のように受け入れていた。


 しかし、少年の他愛のない冗談を聞きながら笑っていると、この霧もいつかは晴れるのだろうと思えてくる。


 そして、それは必ずしも悪いことではないのだという考えも、心の片隅に浮かんだ。


 沙織は卓上の小皿から、冷めた小籠包をつまみ上げ、そっと口に入れた。熱い時には感じなかったが、芳醇な旨みが口中に広がる。


 後から、砕いた雑穀と野菜にごま油の風味が混ざる。昆布のやさしい出汁を吸った冬瓜を、弾力のある皮で包んでいるのだろうか。


「私は来春から、地元の和菓子店で働くことになりました」そう言って、この辺りでは知らぬ者がいない老舗の名前を挙げた。


「同じ学校で歴史を学びながら、私は地元の伝統を残す老舗へ、香澄は松田さんと同じ最先端の機器を作る会社へ就職しようなんて、本当に不思議でした」


 それから二人は少しの間、黙って冷酒を酌み交わしながら、残りの料理を楽しんだ。



 結局、沙織はそれ以上香澄の話をせずに会食を終えて、以後松田とは会っていない。


 ただ最後に松田から、これ以上自分を責めないで下さいと沈痛な表情で言われたことが心に残っている。あれほどまでに疲れ切った人間から労われるほど、自分はひどい姿を晒していたのだろうか。


 それがきっかけで、沙織は少しずつ暮らしを立て直した。そして、一人で時折結城亭へ足を運ぶようになった。


 特に卒業して仕事を始めてからは、訪れる頻度が増えている。


 店に行くのはいつも一人で、松田に教えてもらったカウンター席の隅で静かに酒を飲み、料理を楽しんだ。


 店の姉弟とも親しくなり、同じように歴史のある店で働く仲間として話が合うようになっていた。


  

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