幻想酒場漂流記 第八夜 にゃ病の宿
にゃ病の宿 1
本稿は、新型コロナウィルス(COVID-19)の世界的な流行となる2020年以前の、2018年3月に書かれた作品の内容を、ほぼそのまま掲載していることを事前にお断りしておきます。
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【はじめに】
通称ではあるが、「にゃ病」と呼ばれている病気がある。
私がこの妙な名前の病気について知ったのは四年前、高校三年になってすぐのころだった。
その時にはまだこの病自体が世間には全く知られておらず、後にこんなふざけた名前で呼ばれるようになるとは、夢にも思わなかった。その意味では、私がこの病気の第一発見者だと言ってもよいのだろうと思う。
そのころ私が両親と父方の祖父母と一緒に住んでいた家は、北関東の山間に古くから開けた町にあった。私はそこからバスと電車を乗り継いで一時間半近くかかる県立の女子高校へ通っていた。
姉はその何年か前に家を出て、東京で一人暮らしをしながら働いていた。姉の暮らす家は四谷にある女性専用のシェアハウスで、何度か私も遊びに行ったことがあった。
古いがよく手入れされた美しい建物で、同居する住人も姉と同じ年頃の素敵な女性だった。
周辺は静かな住宅街で交通の便も良く、立地も申し分ない。そのころ六部屋あった個室のうち二部屋が開いていて、私も東京の大学に合格したら翌年の春から同じシェアハウスに暮らしたいと考えていた。
しかし、そのころマスコミを賑わせたある事件をきっかけに、姉と私の人生は小さな転換を見せることになる。
当時、姉は六本木の有名な美容室で働いていた。
美容師になって三年目に美容学校時代の先生から声をかけてもらってその店に移り、一年ほどが過ぎていた。店では毎日必死に腕を磨いて、新しいお客様の信頼も得られるようになっていた。
賑やかな都会の暮らしにも慣れて、やっと自信を持って仕事ができると思っていた矢先に、姉はその病気を発症した。
長時間勤務が続き休日も新しい技術を求めて勉強や練習が欠かせないので、日々強いストレスに晒されていたのは確かだ。
しかし若くて体力にも余裕があり、美容師の仕事が大好きで気力に満ちていたので、まさか自分が病気であるとは思いもしなかったという。
初めは、店のスタッフとのちょっとした諍いだった。最近調子に乗っている、生意気だ、自分勝手すぎる、と先輩から叱られることが急に多くなった。
そのうち客とのトラブルが増え、次第に仕事が減っていった。姉には全くその原因が思い当たらず、単に先輩からの嫌がらせだと感じていた。
ところが後にスタッフの話を聞いたところ、そのころの姉がかなりひどい状態であったことが判明した。
例えば集中してカットをしていると夢中になりすぎて周囲のことがまるで分らなくなる。そうなるともうカットしているお客様の話を聞くこともできなくなるし、店の中に注意を向けることもしない。当然、後から来店するお客様にも気づかず、挨拶すらできない。
しかも酷いことに、そんな態度を先輩に指摘されても、そんなことはないと逆に怒りを浮かべて喧嘩になる。
スタッフ間の亀裂は広がり、最終的には店長から、もういい、すぐに家へ帰れ、明日からもう来るな、と散々に叱られて、結局謝罪もせず言われるまま自宅へ帰って、そのまま店に来なくなってしまった。
その後、姉は自分の部屋に引きこもって好きなテレビゲームばかりをしている日が続いたらしい。
元々姉はお酒が好きで仕事が終わってから店の仲間と一緒に飲み歩くことが多かったのだが、不思議と部屋でゲーム三昧の暮らしを始めてからは、飲みたいと思わなかったようだ。
しかしあるとき、風呂上りに居間を通ると、同じシェアハウスの仲間が二人でビールを飲んでいた。
誘われて一緒に飲み始めてから、その場の居心地の良さにすっかり夢中になってしまった。それから気づけば同居する四人で一日中居間に集まって、お酒を飲み続けるだけの日々が始まった。
四人の暮らす「四谷ウインド」は民家を改装したシェアハウスだ。
当時で築二十五年を過ぎた鉄骨三階建てで、個室数六室の共同住宅だった。
一階は車庫と自転車置き場に浴室、洗濯室などの水回り。二階は対面式のシステムキッチンとリビングダイニング、トイレと洗面所の他に個室が二部屋あり、姉が暮らしていたのはそのうちの一室で、六畳一間の狭い部屋だった。
三階には同じような個室四部屋と共用の物干し場になっている広いバルコニーがあった。家賃はやや高いが都心にあって通勤には非常に便利な立地だった。
姉が仕事へ行かなくなって一週間ほど過ぎたころ、美容室から実家へ電話連絡があった。姉が無断欠勤を続けて連絡が取れなくなっていると聞いた両親の依頼を受けて、私が四谷のシェアハウスを訪ねた。
梅雨入り前で、強い陽の差す土曜日の午前中だった。木漏れ日が玄関脇に植えられた紫陽花の淡い色の花に当たって揺れていた。
私がインターホンを鳴らしても応答はなく、玄関の鍵が開いたままなので恐る恐る薄暗い家の中に足を踏み入れてみた。
途端に、ひんやりとした湿った空気に包まれる。
一階は無人だったが、二階からは人の気配が感じられた。
こんにちは、と口の中で呟いてから靴を脱いで廊下へ上がり、階段を忍び足で昇った。
階段の途中から恐る恐る覗き見ると、居間で四人の女性が部屋着のままソファに横になり、昼間から呑気にビールを飲んでいるのが見えた。
一様に寛いで放心した表情で、入ってきた私を無視して穏やかな調子で会話をしている。だがその言葉を聞いて、私は立ちすくんだ。
「今日はにゃんだか少し暑いにゃ」
「うん、そうだにゃぁ」
「冷たいビールが欲しいにゃ」
「でも、もう冷蔵庫には入っていないんだにゃ」
「にゃぁんだと、それは一大事」
「仕方がにゃいにゃぁ、缶チューハイでも飲むかにゃ」
「うん、それがいいにゃぁ」
「わたしもそうしようかにゃぁ~」
「チューハイはたくさんあるんだにゃぁ~」
「うれしいにゃ~」
とりとめのない緩い会話が四人の間で続いていたが、聞いている私の肌は粟立った。
いい大人四人が猫のように身をくねらせて、にゃぁにゃぁと話しているのは異様な光景である。
私は見てはいけない物を見てしまったような居心地の悪さを感じてその場に立ち尽くしたが、当の四人は全く私の存在を気にすることなくマイペースでお酒を飲んでは「おいしいにゃー」などと幸福そうに目を細めていた。
何分か何十分か、呪いによって石にでもされたかのように固まっていた私は、ふと思いついて肩から下げた鞄に入っていたタブレット端末を取り出して、その異様な光景を動画に収めた。
その日、私は結局姉に声をかけることもできずに家へ戻って、両親にその状況を報告した。
見た通りの光景を繰り返し説明し、撮影した動画を見せても両親は容易に事態を飲み込めず、ただ首を傾げるばかりだった。
とりあえず見た目の健康状態には不安がなさそうだったことと、落ち着いてビールを飲んでいるだけだったので、両親もひとまずは安心したようだった。
その後心配してシェアハウスを訪ねた他の住民の家族を含めて、四人の住人を交えた話し合いが何度か持たれたが状況は改善されず、専門家の助言に従いアルコールを無理やりに取り上げると四人の症状は途端に悪化してそれぞれの部屋へ引きこもってしまう。
そのまま四人とも気分が塞いで、会話もままならぬような状態になってしまった。
一緒に暮らす四人が揃ってこの状態なので、当初は何かの薬物中毒や集団感染も疑われて、シェアハウスごと隔離して調査が行われた。
しかしながら、保健所や大学病院の検査でも何もわからず仕舞いで、結局医師の指導の下、再び軽度の飲酒を始めたところ症状は再び小康状態となり、四人は居間に集まり元の通りに缶ビールを片手に、にゃぁにゃぁと緩い話をするようになった。
彼女たちが一人だけなら仕事のストレスによるうつ病と簡単に診断されただろう。しかしその症状を詳しく見てみると、揃いも揃ってADHDやアスペルガー症候群といった発達障害の症状に酷似していたのだ。
それによって四人とも同じように職場の人間関係が崩壊して、仕事が続けられなくなっていた。
その後、大学病院の研究者が二部屋あった空き部屋を借りて、にゃぁにゃぁと酒を飲み続ける四人を観察することになった。
四人はただ何もせず、居間のソフォーへ寝転んでのんびりゆっくりとお酒を飲みながら緩い会話をするだけで一日が過ぎる。それを素面のままただひたすら見ているだけの研究者も気の毒だったろう。
結局そのまま三か月ほどにゃぁにゃぁと暮らしているうちに四人の症状は改善して、会社員の一人と美容師の姉は一足先に転居して行った。
それと入れ替わりに三人の新たな引きこもり患者が四谷ウインドへ加わることとなり、程なくして居間のにゃぁにゃぁ宴会に三人が加わり賑やかになった。
姉は一度実家へ戻り療養した後、地元の店で再び美容師として働き始めた。
今では病気の再発もなく元気に暮らしている。入れ替わりに私は翌年の春から東京へ出て、大学で学びながら一人暮らしをしている。幸い私はにゃぁにゃぁと言い始めることもなく、お酒もあまり飲まずに暮らしている。
姉のように理由もわからぬまま全快して社会復帰する者が増えると共に、入居希望者も増えて四谷ウインドは手狭になった。
病院内で飲酒行為を続けるわけにもいかず、適当な施設もない。偶然空いた隣地の家を改装して新たなシェアハウス「四谷ウインド2」を作り、今では二軒合わせて十四人の患者が毎日にゃぁにゃぁ言いながら酒を飲んで暮らしている。
この時の姉の症状は、発達障害に酷似している、と言われた。
しかし、発達障害は一般的には幼いころにその症状が発現する先天性の障害と言われている。
姉も含めて四谷ウインドの四人は既に成人して普通に仕事をしていた。
その年齢に至るまで発達障害を疑われるようなことは何もなく、あまりにも突然の発症だった。
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