幻想酒場漂流記 第六夜 黒い雨
La Pioggia nera 1
ひとり暮らしをしていた父が体を壊して、何年か入退院を繰り返した末に鬼籍に入った。ちょうど年末に差し掛かる忙しい時だった。
嫁に行った妹の家族と東京にいる身近な親類だけでささやかな葬儀を終え、必要な手続きなどに追われながら納骨を済ませて一息ついたときには正月もとうに過ぎ、一年で一番寒い季節を迎えていた。
長引く闘病生活の中で、身辺整理は父自身の手で粛々と行われていた。いわゆる終活というやつである。
しかしいざ亡くなってみるとその後の混乱は私の想像以上で、喪失感と疲弊も意外なほど大きかった。
父の具合がかなり悪くなって、長男である私は一年前に実家へ戻り父と暮らしていた。父が逝き、自分ひとりが残された家の中は静まり返って寂寥としている。
仕事をしながら家と病院とを往復していたころには、実家でのんびりする時間も少なかった。
葬儀とそれに続く様々な雑事をこなしているうちもまだ良かったのだが、それが一段落してみると、空虚感に陥り余った時間をどうして過ごすべきなのか、突然戸惑ってしまう。こんな落ち着かない気持ちは今まで経験したことがなかった。
何となく尻がムズムズするような毎日を紛らわせるように、少しずつ父の残した遺品の整理を始めていると、妙なものを見つけた。
それは父の亡くなる直前に届いていた一通の手紙で、入院中の父は結局開封することがなかった。
差出人の名前には覚えがなく、終活に臨み整理されていた父の個人的なアドレス帳にもその名は見当たらなかった。
念のために封を開けて中を確認すると、驚くべき事実が判明した。
差出人が個人名なので気付かなかったが、最近テレビで時々目にする人気ロックバンドのリーダーからの手紙であった。
同封されているライブのチケットと自筆の招待状の文面から見るに、生前の父とは相当親しい交流関係があったものと思われる。
無口で地味な会社員であった父親が仕事上で芸能関係者とこれほど懇意にする事は、ほぼあり得ないだろう。だとすれば、会社の人間も家族も知らぬ父のプライベートな付き合いであった可能性が高い。
私が父の死を伝えたリストにも彼の名はなかった。他に共通の友人がいなければ、先方は未だ父の死を知らないのだろう。
これは隠された父の一面を知る機会と思い、遅ればせながら私が簡単な返事を書いて投函した。
数日後、差出人の本人から直接電話があった。
テレビで見かけるロックスターの孤高で尊大な印象とは違い、非常に丁寧かつ礼儀正しい口調で私の話を聞き、そして自ら確認した事実に衝撃を受けていた。
聞けば、父との交流が始まったのは五年前に遡り、彼らがまだ無名だった時代から続いていた。
しかもバンドメンバー三人全員が、父をある種の恩人として慕っていたようである。
父を含めた四人が何らかの深い絆で結ばれていたのだと聞いたが、にわかには信じられない。
直接会って私と話したいという熱心な希望を受けて、一週間後の晩、先方の馴染みである静かなバーを指定されて、待ち合わせをすることになった。
麻布の住宅街にあるピアッジアという名のイタリアンバルは古い石造りの建物の一階で、重い木の扉を開けると、中は意外なほど狭かった。
重厚な木のカウンターと金色の照明を反射するワイングラスの群れが美しく調和して、東京にいることを忘れるような異国情緒を醸し出している。
カウンター席だけの細長い店で、内装は不思議と明るくイタリアワインと手ごろな値段の小皿料理が若い女性に受けそうに思えた。
しかし今夜はスーツ姿の私の他に、ラフな服装の痩せた男たち三人がカウンターの隅に並んで腰かけ、奇妙な雰囲気を作っている。
電話で話したリーダーの男はシンヤと呼ばれている。
短髪に浅黒い筋肉質の細い体で、ロッカーというよりは肉体労働者かスポーツ選手のようだ。
他の二人も黒い長髪であることを除くと似たような体格で、しかしとても柔らかな笑顔で迎えてくれたので安心した。
CDのジャケット写真で目にする鍛え上げた筋肉質の体に挑むような視線を投げる姿とはずいぶん異なる印象だった。
一番体の大きいのがドラムのケイタで、童顔で陽気なムードメーカーだ。もう一人の痩せた長髪がギターのナオキで、主に作曲を担当している。
リーダーのシンヤはベーシストで、メッセージ性の強いオリジナル曲の多くは彼が作詞している。本物のスターを目の前にして、私は興奮気味である。
私自身も学生時代にはバンドを組んでギターを弾いていて、一時期は相当にのめり込んでいた。
彼らのようにプロとして活躍することがどれほど困難で稀有なことであるかは良くわかる。
そう思うと、この場に同席できること自体が信じがたい光栄で、父には感謝の言葉もない。何故こんなに凄い人たちと父が知り合うことになったのか、謎は更に深まる。
だが、その前に彼らの希望により、先ずは私から、父が亡くなった経緯を簡単に話した。
父は、五年前に体調を崩し入院して以来、長い闘病生活を送っていた。
一時期小康状態にあったが、二年前に再発して、最後には全身に転移した癌により息を引き取った。そんな経緯を彼らは知らなかったようで、私の言葉に驚きと落胆の色を隠さなかった。
男たちの年齢は三十前後で、私より学年は上のようだったが、ほぼ同じ世代である。
彼らはちょうどその五年前に、この店で父と出会ったのだという。そのころの私は、大学卒業と同時に家を出てから二年が過ぎて、仕事にも慣れて暮らしが落ち着いた時分であった。
当時、実家では父と妹の二人暮らしになっていたのだが、私は家に帰ることも稀で、家族との関わりは薄かった。
当時、妹は既に結婚を前提として付き合うパートナーがいて、やがて結婚して家を出るまでの良き思い出として、父には娘との二人の暮らしを楽しんでもらいたいとの思いもあった。
三年前に妹が結婚して家を出て、ついに父は一人暮らしになった。それからは私も気を遣い、時折実家を訪ねたり、父と二人で酒を飲みに出かけることも増えた。
しかし父の口から彼らのことを聞いた記憶がない。直近の一年間は私も父と同居していたのだが、父と彼らの交流については、全く知ることがなかった。
やがてリーダーのシンヤを中心に、メンバーの三人が父との出会いを話し始めた。
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