西王母の桃 4
あの女と出会ったのは、僅か七十年数年前さ。
俺は東京で生まれて、子供の頃に震災で家族を失った。その後親類を頼って大阪へ行き、昭和九年の室戸台風で大阪の家も流された。
俺の行く先々で何故こんな災難に襲われるのか、運命を呪っていた時にあの女と出会った。
俺は女と一緒に暮らし始めた。ところが間もなく日中戦争が勃発し、俺は妻を残したまま一兵卒として大陸へ渡った。そのうち太平洋戦争が始まり戦線が激化すると南方へ送られ、そこで地獄のような日々を送った。
熱帯の病に冒され、糧食が尽き、敵の猛攻を受けて、幾度も部隊は全滅した。
だが、その度に俺一人だけが血生臭い戦場で生き返った。そうやって激戦地を転々としながら、南方で終戦を迎えた。俺は共に戦い散った若い戦友の名前を拝借し、別人となり日本へ引き上げて、大阪の街へ戻った。
俺が復員した時あの女は東京にいたが、程なくして再び俺の元に現れた。
どんなに離れていても、俺の居場所はわかるのだと笑っていた。俺は背筋がぞっとしたね。
戦後の混乱に乗じて女も新しい名前を得ていて、俺たちはそれから国内をあちらこちら転々をと浮草のように流れて生きてきた。
以前に七百年と言ったのは満更嘘でもなく、俺の前にあの女のパートナーだった男は、本当に七百年の月日をあの女と共にしたらしい。
鎌倉時代に出会った二人は元寇の騒ぎに乗じて九州から大陸へ渡り、フビライの遠征に加わってヨーロッパまで行き、その後長らく欧米で暮らしていたと聞いた。
その時に築いた巨額の資産が、今でも世界中に散らばっているという。勿論、その資産を操ることができるのは、女の頭の中にある膨大な情報だけだ。
恐るべきことに、あの女はあらゆる記憶を正確に覚えているのさ。それこそが、人類にとって最高の資産なのかもな。ただ、あの女にとっては何の価値もないのかもしれないが。
連中が再び日本へ戻ったのは、幕末から明治の混乱期だという。
しかし、数百年ぶりに祖国へ帰って来たおかげで、男の神経が狂ってしまった。俺がその男から直接聞いた話では、あのまま欧米でひっそりと暮らしていれば、今でも二人で一緒にいただろうとも言っていた。
俺は、僅か七十年でダメになった。
ほら、指からまだ血が出てるだろ。俺は、普通の人間だ。やっと解放されたんだ。
前の男に聞いた話だが、あの女が下僕に選んで桃を食べさせるのは、一人だけとは限らないそうだ。大昔は大勢の男に囲まれて暮らしていたこともあるらしい。
しかし、女の見えぬところで男同士の諍いが絶えぬため、止めたのだと聞いた。
そもそもあの女は何者なのか。本当の顔も、名前も、わからない。一体いつから、何のために存在するのか。誰も、何も知らない。
そして、いつか本当に俺が元の体に戻れるのかも、わからなかった。ずっと不安だったんだ。
何しろ俺たちはほんの七十年の付き合いで、そのうち十年近くを俺一人戦場で過ごしたんだ。
ああ、だがこれで南方で散った戦友や、洪水に沈んだ仲間のところへ行ける。俺は人の死を多く見過ぎた。それに俺自身も、何度も死に過ぎた。
後は、あんたに任せるよ。岡崎さん。
岡崎は、テーブルに伏して嗚咽する男を見下ろした。
二十歳前後の学生にしか見えなかったが、この男の言うことが本当なら、彼の年齢は九十歳を超えている。
やがて、嗚咽していた男が顔を上げ、おしぼりで顔を拭って岡崎を正面から見た。
「女と二人で仙台へ行くと言っていたな。じゃあ、俺は西へ向かおう」
岡崎は、そんな言葉が耳に入らず、聞き流している。
「俺たちは東京へ来る前は神戸にいたんだ。そう、あの阪神大震災の起きる何年か前からな」
岡崎の心を男の声が素通りする。だが、男は静かに話を続ける。
「あの女が神か悪魔か知らないが、生身の肉体を持つことは間違いない。だから海底深くへ沈むか、地の底にでも埋まってしまえば、そこから抜け出すのは容易でない。そのせいか、あの女は事故や災害に対して非常に鋭敏な嗅覚を持っていて、前もってそれを知ることができる」
岡崎は、今でも彼女が普通の女だと思っていた。
「危機予知能力とでもいうのかな。現代ではいつまでも同じ若い姿で生き続けることは難しい。だから頻繁に移動しながら名前を変えて、顔を変えて生きていくしかない。その時に、女の能力が役に立つ。俺たちは何年か神戸に住み、あえて地震に巻込まれた。そして、そこで命を落としたことになっている。その後、新しい名前を得てこの町へやって来たのさ」
岡崎は次第に男の話に引き込まれていく。そしてふと浮かんだ疑問を口にした。
「しかし、新しい名前を得るなんて、簡単なことじゃないだろう」
「なに、そこは長年の知恵という奴さ。心配しないであの女に任せておけばいい。世の中金次第ってところは、今も昔も変わらない」
「俺に近付いたのは、あの女を押し付けるためか?」
低い声で脅すように岡崎が呟く。
「俺が解放される条件として、あんたがどんな男か探らされたのは事実だ。でも、岡崎さんに興味を持ったのは、あの女が先だ。激情的な若い男より、経験を積んだ男がいいと言ったのもあの女だ」
「まんまと嵌められたってわけだ」
「違う。俺はあんたに聞いた身の上話を、そのままあの女に伝えただけだ。後はあんたたち二人の問題で、俺は何の関係もない」
「確かに、そうかもしれない」
「だろ。まあ、あの女自身は男の望む通りの姿に変わるから、目を付けられたら逃げることは難しいと思うがね」
「どういう意味だ?」
「本当にわからないのか?」
「何がだ?」
「これからあんたたちが仙台へ行くとすると、数年以内に北国で何か悪いことが起きるのだろう。俺は西へ逃げるよ。もう会うこともないだろうな」
男は晴れ晴れした顔で、店を出て行く。残された岡崎は、茫然としたまま男の言葉を反芻していた。
だが、岡崎も微かに笑いながら店を出た。体が軽い。酒の酔いも、みるみるうちに体から抜けていくのがわかる。
まっすぐに家へ帰ると、迎えに出た女の顔をまじまじと見た。
岡崎の視線に照れて微笑むその顔は、別れた妻に瓜二つである。それも、二人が一番幸福だった時、妻が妊娠したことがわかった頃の、その姿に。
そんな筈はない。岡崎は強く首を横に振って、あらかわ家で出会った頃の女の顔を思い出そうとした。しかし、いくら考えても、どうしても何も浮かばない。そして、先ほどの男の言葉を思い出した。
「そもそもあの女は何者なのか。本当の顔も、名前も、わからない。一体いつから、何のために存在するのか。誰も、何も知らない……」
了
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