西王母の桃 3
一月ほどは何事もなく過ぎて、岡崎の心も平穏を取り戻した頃、馴染みのあらかわ家の暖簾をくぐると、朝のカウンター席であの女とばったり出くわした。
「ずいぶんご無沙汰でしたね」
女は後から来た岡崎の隣へわざわざ席を移して、静かに口を開いた。女の顔には笑みが浮かんでいるが、その言葉には鋭い棘があった。
「岡崎さん、休みの前に誘ってくれると約束しましたよね。どうしてあれからメールをくれないんですか」
女は珍しく酔っているようだった。
「約束って……」
岡崎は言葉に詰まり女の顔を正面から見る。やはり、別れた妻によく似ているのだった。
「まさか、覚えていないんですか?」
「もしかして、丸源で会った時に?」
「ああ、あの時は酷い酔っ払いでしたからね」
「すみません……」
「ずっと待ってたのに」
「じゃあ次の休みに」
「それはいつですか?」
女の言葉が詰問調に変わる。
「えっと、明後日の晩」
「わかりました。でも、休みなんだから、もっと早く来てください」
女は岡崎を睨む。
「じゃあ夕方五時前にここで待ってます」
岡崎の言葉にやっと女は頷いて、得心の笑顔を見せる。岡崎は今のこの場を切り抜けることだけが全て、という追い詰められた心境であった。
「今朝は少し飲み過ぎたので、帰ります」
そう言い残して女が竜巻のように去ると、岡崎もどっと疲れてその日は早々に家へ帰り、眠ってしまった。
それから岡崎は時々女を誘い、一緒に飲むようになった。冴えない中年男の何が面白いのか、女は飽きることなく岡崎の誘いに応えて度々店へ足を運ぶようになった。
そんな関係が半年、一年と続くうちに話題も広がり、二人で芝居を見たり買い物に出掛けたりと、自然と距離が近くなる。
女は自然と岡崎の家へ通うようになり、岡崎もまた三交代の輪番勤務に戻り、今では以前の営業職への復帰も打診されるようになっていた。
相変わらず、あらかわ家へは通っている。
その朝も、夜勤明けにカウンターで飲んでいた。傍らには、岡崎が七百年と呼ぶ若者が腰を下ろしている。
「結局、岡崎さんはあの人と一緒になるんですか?」
この男の遠慮ない物言いには慣れているものの、突然の問いに岡崎は苦笑した。
「さあ、どうなるのか……」
岡崎も、これからどうなるのか全く分からなかった。
「あの女は、やめた方がいいですよ」
「……」
「いや、ほんとに」
「お前、何か知っているのか?」
岡崎は少々苛立っていた。
「実は、あんたと会った頃に俺が別れた女っていうのが、あいつなんですよ」
「なんだって……」
意外な話に思考が停止する。
「あの女をこの店に連れてきたのは、俺なんです」
そういえば、女が誰かと一緒にこの店に来ていたと言っていたのを岡崎は思い出す。
岡崎はかつてないほど身の内が熱くなるのを感じた。
「悪いことは言わない、あの女から早く離れた方がいい」
そのあまりに身勝手な言いように、岡崎は久しくないほど立腹した。
「そんなことは俺の勝手だ。お前に指図されるいわれはない!」
若者は岡崎の剣幕にたじろぎ、黙り込む。岡崎は声を荒げたことに狼狽し、顔を赤らめた。
「俺だって情けない自分のことは承知してるさ。こんなオヤジのどこがいいんだか……」
岡崎は両肩を落とし、両手で短い頭髪の頭を抱えて沈み込んだ。
「いや、逆なんです。岡崎さんはいい人だから、何とか考え直してほしいと思っただけで」
岡崎の頭は混乱する。
「彼女は、何者なんだ?」
だが、その後何を尋ねても男は気まずそうに首を振るばかりで、答えてはくれなかった。
数か月後、岡崎は再び朝の酒場で七百年の若者と出会った。
若者は岡崎を見て、すぐに顔を背ける。岡崎は若者を無理やり隅の四人卓へ誘い、生ビールと焼鳥を注文した。
「妙に元気じゃないですか。何かいいことでもあったんですか?」
「結婚するんだ。仕事を辞めて、これから二人で仙台へ行く。そこで、新しい暮らしを始めるんだ」
岡崎は、再び動き始めた自分の人生を、もう手放す気はなかった。
あの日、妻が差し出した離婚届を、その場で即座に破り捨てるべきだったと、今では思っている。
あるいは妻も、それを期待していたのかもしれない。だが、自分は黙ってそこから逃げて、妻を絶望の淵に置き去りにした。
妻だけではない、自分自身さえもそこへ置き去りにして逃げ出した。そこから先は吐き気を催す自己憐憫の世界だ。
だから、今度は何があろうと逃げない。岡崎はそう決めた。
「ちょっと手を出してくれますか」
岡崎は少しためらいながら、左手をテーブルの上に出す。その手首を若者が左手で握り、焼鳥の串を指先へ突き立てた。
「痛っ」
慌てて岡崎が手を引き、指先を見る。薬指の先から赤い血の球が吹き出ていた。
「いきなり何をするんだ」
そう言う岡崎の声に耳を貸さずに、若者は自分の指にも同じように串を突き立てる。
そして掌を広げて、大きくなる血の球をじっと見る。
若者はおしぼりで自分の指を拭うが、指先の穴からは変わらず血が染み出ている。
次に若者は岡崎の指を拭うが、汚れを拭い去ると、もう血は止まっており、串を刺した傷後すら残っていない。
「岡崎さん、桃を食べましたね」
テーブルの上を見たまま、若者が呟く。
岡崎は少し考え込んで、頷く。
「確かに、最近桃を食べたな」
若者は、下を向いたまま、小さな呻き声を上げる。
「どうりで、若々しくなって。以前のあなたとは別人のようです。あなたが食べたのは、西王母の桃ですよ」
岡崎はその低い声に思わず身を引く。
「聞いたことがありませんか?」
「それは、孫悟空が天界で食べたっていう、あれかい?」
「そうです。崑崙山の女神、西王母が持つ不老不死の果実。それが西王母の桃です」
「じゃあ俺は、桃を食べて不老不死になったと?」
若者は岡崎の呆れたような口調に、黙って自分の左手を差し出す。その指先からは、まだ血が滲んでいる。岡崎は自分の指を見た。既に刺された傷は跡形もない。
「実は俺も、昔その桃を食べたんだ」
若者が絞り出すように言った。
「ま、まさか、それが七百年前だなんて言わないよな……?」
岡崎の困惑気味の語尾が、不安に揺れる。
そして、若者は老人のようにしゃがれた声で話し始めた。
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