幻想酒場漂流記 第三夜 ニーチェ
ニーチェ 1
今日も猛暑の一日が終わる。
最近頭を悩ませていたややこしい仕事がひと段落した週末、日が暮れてやっと少し涼しくなってきたオフィスで、私は大きく深呼吸をして体を伸ばした。
翌朝早い飛行機で海外旅行へ行くという部下を見送り、注文通りに修正された報告書へもう一度だけ目を通して最終チェックとした。とりあえず、何も問題はない。
今週の仕事はこれで終了。来週でもできる仕事は来週やればいい。今日はもう何も考えないことにして、私も上がることに決めた。
一週間の疲れが、後頭部から背骨の回りに凝り固まっている。軽く一杯飲って延髄を解き放ってやりたい気分であったが、既に閑散とした社内には付き合ってくれそうな呑兵衛が見当たらなかった。
仕方なく一人で会社を出て、家の近所にある馴染みの酒場へ寄ってみようと思った。ここひと月くらいの間、暑さと忙しさに負けて店に顔を出していなかった。
お盆の時期で普段より相当乗客の少ない下り電車に乗り、自宅のある最寄り駅で降りた。すっかり日は暮れているが、駅前広場の大ケヤキではアブラゼミが競うような大合唱を続けている。
駅にほど近い路地裏の居酒屋へ久しぶりに足を運ぶと、いつもの縄暖簾が出ていない。入口には貼り紙があり、お盆の休業であった。
これでは仕方がない。意地汚く開いている店を探し回るのも嫌で、諦めて帰ることにする。
パチンコ屋の前に雑然と並ぶ自転車を避け、エアコンの室外機から吹きつける熱風に追われるように路地を出て、駅から続く道を家の方向へと歩き始めた。
この辺りは普段通勤で使うのとは違う道筋で、平凡な街並みだが新鮮な眺めではある。
昼間の熱気が収まらないサウナ風呂のような中、重い足をのろのろと進めていると、妙な音が気になった。
規則的なその音は、前を歩く若い男から発せられている。
ジーンズと、薄茶色の革のスニーカーを履いて歩くリズムに合わせて、何やら粘着質の音が連続する。
革の靴が鳴く音なのか、柔らかな靴底が熱せられたアスファルトに貼り付く音なのか判然としないが、その若い男が歩く一歩ごとに、不思議な音が響く。
後ろから見ると小柄な男の細い脚は見事なO脚で、音を気にする風もなく同じリズムを刻んでいる。
ぴったりとした紺色のポロシャツを着て、靴と同じような茶色い革のカバンを袈裟懸けに掛けている。
線路沿いの細い道が、ちょうど商店街から住宅街へと移り変わる辺りだった。私の帰る方向も一緒なので、暫くその後ろ姿を眺めながら珍しい音を面白がって聞いていた。
密かなランデブーを続けるうちにその音が次第にカタカナになって私の耳へ届き、ニーチェ・ニーチェ……と聞こえる。
催眠術のように脳内から他の思考が全て追い出され、ひたすら片仮名の「ニーチェ」に占有された。
やがて男は道を左の暗い路地へ逸れて、呪文のように響く音が消えた。私は男の姿を追うようにその狭い暗がりの路を覗き込むが、既にニーチェの姿はなかった。
よく見ると曲がり角には一軒の小さな酒場があり、赤提灯と薄汚れた黄色い暖簾が熱風に揺れている。私は誘われるようにその扉を開けて、店の名も見ずに中へ入った。
まるでニーチェの足音に洗脳でもされたかのように、普段の私からすると不自然な行動だった。
一歩中へ足を踏み入れた瞬間、古い演歌の伴奏が耳に入った。そして店内を見廻して、私の五十年の人生経験で獲得した全ての感覚が、ここは駄目だと警告を発した。
ニーチェに導かれたにしては、哲学の深淵とは正反対に位置する通俗の極みのような店である。
内部は奥行きのない小さな造りで、元々スナックだった店を無理やり和風居酒屋に造り替えたような、中途半端な内装だ。
背の高いカウンター席に椅子が五・六脚。小さな四人掛けテーブルが二つあるが、手前の一つは怪しい民芸品に埋もれて座れそうにない。
予想と違い、店の中にニーチェの姿はなかった。代わりにカウンターに座って飲んでいた茶色い髪のババアがニヤニヤ笑いながらこちらを眺めまわす。だらしなく開いた口の、前歯が一本欠けている。
「すみません、間違えました」とでも言って、一刻も早くその場から逃げ出せばよかった。
しかし奥から現れた干物のような第二のババアが厚化粧に満面の笑みを浮かべて全力で席へ案内しようとするのに負けて、奥のテーブル席の低い椅子へ引きずり込まれ、止む無くそこへ腰を下ろしてしまった。
私は絶望的な状況に追い込まれ、引きつったように笑うしかなかった。
歯欠けババアが聞き取りにくい声でママ、ママと騒ぐので、干物がこの店のママなのはわかる。
しかしそのママは歯欠けを客とも思わず、「お前はうるさい、黙れ」と叱りつけている。いきなりの混沌を目の前にして、益々後悔が募る。とんでもない店に入ってしまった。
店の明かりがそれほど暗くないのが唯一の救いだ。これで暗ければ、完全に化け物屋敷である。
先ずは飲み物、と聞かれて冷たいものを頼もうと思ったのだが、すっかり二人の妖気に当てられて、既に背筋へ鋭い冷気が走っている。
額に汗を浮かべながらも、思わず焼酎のお湯割り、と言ってしまった。
焼酎には、麦と芋があるという。ママの顔を眺めていれば、自然に芋と口に出る。脳裏に浮かぶのは白い粉をふいた干しイモだが。
飲み物の用意をするためにママが奥へ姿を消すと、代わりに歯欠けがカウンターの高い椅子を降りて近寄ってきて、珍しい生き物でも見るように私の姿を見下ろす。
この店のつまみはあれがうまい、これがうまいと話しかけてくるが、食欲などあるわけがない。一刻も早く一杯飲んで立ち去ることだけを考えて曖昧な相槌を打っていた。
歯欠けが次第に馴れ馴れしく私の肩に手を置いたりして来るのでさりげなく避けているうちに、ついに腕をからめたり手を握られたりして気色悪さが最高潮に達したころ、やっとママがグラスとおしぼりを持って戻った。
「こら、お前はあっち行け」と強い口調で的確な命令を発して歯欠けを追い払うところはなかなか好感が持てる。
熱くも冷たくもない常温のおしぼりはあまり気持ちの良いものではないが、無いよりましだとこの店なら思える。
グラスを持つとそれなりに熱いので安心した。口を付けようとするとグラスの中で何やら白いものがゆらゆらと漂っているのを見つけて、慌ててテーブルに戻した。
冷静に観察すると、しばらく洗っていない薬缶やポットに残っている水垢のようなものだろうとの結論に達した。次第にグラスの底へ沈んで行く白い滓を確認して、そっと上澄みに口を付ける。
むせ返るような芋焼酎の濃さに、アルコール消毒への期待が膨らむ。
「うん、こりゃ濃くていいわ」
と言って一人で頷く私に、ママは「サービスしといたからね」と恩着せがましく商売用の笑顔を見せる。
「お通しを忘れてたわ」とママが再びカウンターの中へ消える。
その間になるべく沈殿物を舞い上げぬよう化学の実験並の慎重な手つきでグラスを口へ運ぶ。すると、グラスの縁にこびりついている小さな黒い物体を発見してしまった。
仕方なく爪の先でその新発見を剥ぎ取ると、黒く見えたのは乾燥した青海苔であった。既に特別な驚きはないが、絶望的な気分は倍増だ。
一人で暗黒の時を過ごしていると、することもないので自然と店に流れる音楽に耳を傾けることになる。曲が変わって脳天へ突き抜けるような明るい調べになっていた。
これは、演歌ではない。心が落ち着くどこかで聞いた懐かしい音とリズム。曲名は知らないが、日本民謡だった。
それとなく音源を探すと、店の奥のラックに、骨董品のカラオケマシンがまるで仏壇のように収まっていた。調子を合わせてママが鼻歌を歌い、踊るように小鉢を運んでくる。里芋の煮物である。
「お客さん、お奨めはね、焼きそばだよ。何だっけ、ほら、片栗粉でとろみがついたやつがかかっているの」
相変わらずおかしな興奮状態にある歯欠けが懲りずに話しかけるが、間に座ったママが落ち着いて割って入る。
「お客さん、初めてですよね」
「ああ、そうだね」
私は歯欠けの言った「焼きそば」の一言でグラスに貼り付いていた青海苔を思い出して、嫌な気分になっていた。
「この辺にお住まいですか?」
「うん。でもこっち側の道は普段通らないから、この店も今日まで知らなかったよ」
そして、ずっと気付かなければ良かったのに。と心の中で続けた。
「そういえば、ずっと俺の前を歩いていた若い男がいてね。先にこの店へ入ったと思ったんだけど、来てないんだね」
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