ニーチェ 2
私は気楽にニーチェの話をしたが、その瞬間、歯欠けが大きな声を上げた。
「あら、もしかして歩くと靴がキュッキュッて鳴ってた?」
「ああ、そうそう。忘れられない音だった」
「また龍ちゃんだよ、ママ」
「ああ、そうだね。龍介だ」
二人は顔を見合わせて神妙な顔をしている。
「龍ちゃんはね、ママの息子よ」
ああ、やはりここへ来ていたんだ。突然消えるなんておかしいと思った。
「でも、龍ちゃんは三年前に亡くなったんだよ」
「えっ?」
耳を疑った。
ただ目を丸くしていると、ママがためらいがちに話し始めた。
「本当なんです。三年前のお盆休みにお客さんたちと房総へ海水浴へ行った帰りに車が居眠り運転の大型トラックと衝突してね、運転していた龍介はそれきり……」
まさか。自分の聞き間違えかとも思うが、まだ酔っちゃいない。
「それ以来、私の店が心配なのか、こうして時々お客さんを連れて来てくれるんですよ」
「うん、龍ちゃんはやさしい子だったからねぇ」
二人は俯いて、おしぼりで目頭を押さえている。
私は更に背筋が冷たくなり、体が固まった。確かに潰れそうなこの店が心配なのはわかる。亡くなっても尚、母親を思うその心は優しく、美しい。
しかしこんな処へ呼び込まれた私にとっては甚だ迷惑。優しくないこと、この上ない。全く勘弁してほしい。
干物となったママの風体からして、ニーチェは既に三十路を過ぎた年齢だったに違いない。一人息子だったのだろうか。
その孝行息子の犠牲となり、私はこの寂れた店に呼びこまれたのか。
まあ、そうなると一杯飲んですぐ帰るというわけにもいくまい。私は腹を決めてグラスを上げ、「龍介君に」と小さく言って熱い焼酎を一気に煽った。
「あら、お客さんいい飲みっぷり。龍介もきっと喜んでるわ」
ママが女みたいな声を出すので気味悪かったが、これが母性というものなのだろう。
「じゃあ、あたしも」そう言って歯欠けがビールのグラスを空ける。
「お前はいいんだよ。もう飲むな」ママはそう言ってグラスを取り上げるが、「いいじゃないか、ママ。もう一杯だけ……」としつこく絡む。
その時、扉が開いて貧相な男が店に入ってきた。第一印象はそのまま、貧乏神だ。
半分以上白くなった短髪で、色褪せた紺のTシャツを着ている。
おそらく齢六十は超えているだろう。どこかで喧嘩でもしてきたのか、右目の回りが青く腫れて血が滲んでいる。おまけにこの男も前歯が四本まとめて欠けていた。敗戦直後のボクサーのようだ。
息の洩れる聞き取り辛い声でママにモゴモゴしゃべっている。
どうやら今日は金がないけどいいか、と言っているようだ。駄目なら帰るけど、って、金がないなら来るなっ、と私は心の中で呆れて叫ぶ。どうしてこの店には幽霊と妖怪ばかり集まるのか。
貧乏神は何とかカウンターに座り、歯欠けの隣で瓶ビールをグラスに注いで飲み始めた。歯欠けもそのおこぼれを貰って、二人で仲良く乾杯している。
「今日また龍ちゃんがお客さんを連れて来てくれたんだよ」と歯欠けの話す声に、貧乏神が嬉しそうな顔で私を見て、軽く頭を下げる。
私も思わず会釈をした。男は色々と話しているが、そっくり前歯の抜けた口から発せられる声は聞き取れず、私には何を言っているのかさっぱりわからない。
私はお替わりの焼酎を頼んで里芋をつまむ。
「お客さん、片栗粉のかかった焼きそばがおいしいから」と呂律の怪しくなった声で歯欠けが尚こちらへ色目を使う。
私は仕方なくカウンターの中のママへ、「それじゃあ片栗粉、じゃなかった、焼きそばを頂戴」と大きな声で伝えた。
「はいはい」
お湯割りのグラスを運んできたママが小さな声で、私に言う。
「お客さん、焼きそばには、肉入れる?」
どういう意味だかよく分からない。
「えっ?」
「焼きそばに、肉入れる?」
聞いたままだが、なぜそんなことを聞くのかさっぱりわからない。ベジタリアンの店には見えない。
「ああ、入れてよ」
「はい、肉入りね」
肉が入っていない焼きそばには何が入るのか聞いてみたかったが、ママはさっさとカウンターの中へ入り、材料を取りにその奥へ消えた。
「乾杯!」とカウンターの妖怪コンビが誘ってくるので手を思い切り伸ばしてグラスを合わせ、濃いお湯割りを飲む。最初の酔いが心地よく胃の中に火を灯す。
そんなことを繰り返しているうちにふとカウンターの中を見ると、目の前の厨房にいる若い男と目があった。
服装からすると、私の前を歩いていた男、ニーチェである。
陽に焼けた顔は、思いの外若い。思いつめた表情で、こちらへ寄ってくる。よく見ると、右手に大きな包丁を握っている。
私は軽いパニックに陥る。何故ニーチェがここに……
「お客さん、牛肉を切らしているんだけど」
不機嫌そうにニーチェがこちらを一瞥する。右手に持った包丁を振り上げ、鋼鉄の刃がきらりと光る。
カウンター越しにその刃が届くわけがないのに、瞬間的に切られる、と思った。
肉を入れる、とはこういう意味だったのか。咄嗟にそう思ったが、やはりどういう意味だったのかは分からない。そのくらい、私は冷静さを欠いていた。
「いや、豚肉でいいんだから」
歯欠けが明るい声で言い、うひゃうひゃと下品に笑う。
「はいよ、豚焼きそばね」
ニーチェは明るく繰り返して、冷蔵庫から豚肉を出して切り始めた。あっけにとられた私は歯欠けを睨む。
「肉焼きそばは、牛肉入り。豚の入ってるのは豚焼きそば……ってメニューがないよ、ママ」何事もないように、歯欠けが一人で騒いでいる。
「君が、龍介君?」
恥ずかしいが、声が震えてしまった。
「ええ、そうですけど」顔を上げてこちらを見たニーチェは、怪訝そうにそう言ってから、急に笑った。
「騙したな。ぴんぴんしてるじゃないか」
私の抗議にカウンター席の妖怪二人も、うひゃうひゃと笑い続ける。
「岩ちゃん、またやったのかよ」
笑っていたニーチェが歯欠けを睨み、再び不機嫌そうな顔に戻る。そして張りのある声で私に言った。
「お客さん、すみません。この頭の悪い酔っ払いの言うことは嘘ばっかりだから。気にしないでくださいね」
奥からママが刻んだ野菜をボールに入れて出てきて、その場の状況に気が付いてバツの悪そうな笑顔をたたえた。
「お客さん、ごめん。初めての人には、この方がインパクトが強いんで、つい私もやっちまった」
「全く、ひどいよママ。全部本気にしちゃったよ」
「龍介、焼きそば大盛りにサービスしといてね」
「はいよ。肉もたっぷり入れとくから」
それから幽霊と妖怪のいる店で、嫌というほど飲んだ。
予想に反して、ニーチェが作ったのはあんかけ焼きそばではなく、青海苔がたっぷりかかったソース焼きそばだった。
特別おいしいとは思わなかったが、コップの縁さえ気を付けていれば、とりあえず衛生面に不安はなさそうだった。
ママとニーチェも焼酎の水割りを飲みながら、なんとなくこの店を始めるまでの苦労話やら、歯欠けの身の上話などをつらつらと聞かされる羽目になった。
聞いていて楽しい話ではないが、適当に相槌を打っているうちに店に馴染んできたのは良かったのか悪かったのか。
見た目はお世辞にも良くないが話してみれば気のいい爺さん婆さんたちで、一緒に酔えば楽しい仲間であった。
お陰で、その後店を出てからどう帰ったのかもよく覚えていない。
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