にゃ病の宿 3


【四谷ウインド】


 新宿区四谷にある女性専用シェアハウス「四谷ウインド」に暮らしていた四人は入居前に何の接点もなく、それぞれが全く別の仕事を持っていたことが確認されている。


 二人は会社員で、一人はフリーの編集者兼ライター、もう一人は美容師であった。

 会社員の二人は基本的に土日が休みで、平日は残業が多く帰宅は毎日遅かった。他の二人は土日に仕事をしていることが多く休みは不規則で、住民同士の交流時間は比較的少なかった。


 四人は子供のころから発達障害とは無縁の生活を送り、若いながらも社会人として第一線で活躍をしていた。住人同士が直接交流する時間は短かったが、普段はSNSを通じて連絡を取り合っていたようだ。


 四人は食事当番を決めて週に一度か二度は居間に集まり一緒に食事をするなどの数少ないふれあいを大切にしていて、適応障害を感じさせるものはなかった。


 ところがある時期から四人が仕事を休みがちになり、自分の部屋へ引きこもるようになった。皆が家にいる時間は増えたが、一緒に食事をする機会もなくなり、互いに顔を合わせることも少なくなった。


 そんな四人が再び共有スペースの居間に集まるようになったのは、冷蔵庫に大量の缶ビールが入れられてからだった。それはまだ四人が元気だったころに花見の企画をして、共同で購入した物であった。


 シェアハウスのある四谷といえば皇居のお堀も近く、花見のメッカである。その時期に合わせて、四人で缶ビールをケース買いしていた。四人は揃いも揃ってなかなかの酒飲みだったようで、このくらいの量をまとめ買いすることは度々あったようだ。


 しかしその後四人の発症により誰も花見には興味を持たなくなり、ビールの箱は開けられることなくキッチンの隅に置かれたままになっていた。

 既に桜の花が散って久しい時期になり、たまたま誰かが箱を開けて、そのころほとんど空になっていた冷蔵庫に缶ビールを全て入れてしまったのだった。


 ビールが冷えているのならば、ちょっと飲もうか、となるのが当然の成り行きである。

 誰がビールを冷やしたのか、誰が初めに居間でそれを飲み始めたのか、詳しくはわかっていない。

 しかし花に集まる蜜蜂のように自然と四人が居間に集まり、秘めやかな酒盛りが始まった。


 当初この状況を見た大学病院の医師は、同居する孫が夢中なTVアニメーションに登場する猫のキャラクターに似た話し方であると考え、「ニャース病」と仮称したのだった。これが現在の「にゃ病」のルーツである。


 後に、若い研究者たちのグループによりその呼称が誤りであることが判明した


 この女性たちの話す「にゃ」は、広く日本のアニメーション文化に根付く猫耳を持つ少女キャラクターに共通の話し方の特徴であり、それはアニメーションに限らず日本のサブカルチャーの歴史に深く刻まれたコンセンサスである。


 そのことから、この症状は「にゃ病」(仮称)と改められて、今では仮称でなく一般的に広く使用されている。

(正式にはこの症状を、「後天性疑似ASD様症候群」と呼ぶようである。しかし医学関係者以外の知名度は極端に低く、ここでは一般的な「にゃ病」の呼称を使うことにする)


 さて、彼女たち「にゃ病」の原因が後天性のものであれば、その発症メカニズムを解明することにより治療も可能になるのではと、注目されていたのだが、発症のメカニズムはさっぱり解明されぬまま、にゃぁにゃぁと酒を飲んでいるだけで次々と症状は改善して社会復帰を果たしてしまう。


 不思議なことに、最初の四人の女性、いわゆる「始まりの四人」が全快して以降、明らかに症状が再発した者は皆無である。


 適応障害によりうつ病や不安症に移行する場合には、一時的に症状が改善されても再発するリスクが非常に高いのであるが、「にゃ病」による症状が改善して社会復帰した者はほぼ百%、何事もなかったかのように社会へ適合して普通の生活に戻っている。


 それ故に発症の原因は適応障害のような心因性のものではなく、細菌やウイルスの感染によるもので、一度完治すれば抗体ができるのではないかとも考えられた。


 初めに発見されたのが女性のグループであり、その後の患者も女性が続いた。

 特に、「始まりの四人」に続いて入所した三人の女性が、コスプレイヤーでであったがために、ネコ耳や尻尾などのアクセサリー類を着用することが話題となり、マスコミの注目を集めてしまった。


 四谷ウインドの存在は世間にセンセーショナルに受け止められ、一時はマスコミの取材が殺到したのだが、実は男性患者も一定数以上存在した。


 男性も女性と同じように一か所に集めて治療する施設が作られたが、男性の場合には女性よりも「にゃ」率が低く、他に会話での目立った特徴が認められないためやや地味であった。

 それ故、女性患者のように社会の関心を集めることもなく、街の片隅でひっそりと治療が行われて、マスコミの認知度も非常に低かった。


 確かに、いい歳をした男性が集まり、少なからず「にゃぁにゃぁ」話す姿は非常に見苦しく、決して喜んで見たいものではない。

 一部独特の嗜好を持つ女性研究者の間では静かな注目を集めていたが、マスコミに積極的に取り上げられる機会がなかったおかげで、世間一般にはまだこのある意味衝撃的な事実を知られてはいなかった。


 一時的に「にゃ病」男性施設が男性の新体操やシンクロナイズドスイミングのようなマニアックなファンに注目されて、その隠し映像がネットに流出したことがあった。しかし、それも入居者及びその親族の訴えによりプライバシーの侵害や個人情報の流出を理由に規制・削除されて以降、沈静化している。



【「にゃ病ウイルス」の発見】


 都内の男性向け施設の入居者からウィルスが発見されたのはまだ最近のことだが、(仮称)「にゃ病ウィルス」の存在は、一時期政府によって秘匿されていたのはあまり知られていない。


 コロナウィルスが、どうも「にゃ病」に関係がありそうだと報道されたのは今から二年以上前だった。コロナウィルスはヒトだけでなく、哺乳類や鳥類に広く感染する多くのタイプが存在する。


 人に感染するコロナウィルスは風邪の原因の一つとして古くから知られているが、インフルエンザのように重症化することはない。

 近年では変異した新型のコロナウィルスにより引き起こされる重症急性呼吸器症候群(SARS〈サーズ〉)や、中東呼吸器症候群(MERS〈マーズ〉)などが世界中で問題になっている。


 これら新型のコロナウィルスは、従来人が感染していたコロナウィルスとは異なり、ハクビシンやコウモリなどの動物から人に感染するようになったものと考えられている。


「にゃ病」患者の確認数が増えるに従い、原因究明に関わるウィルス研究にも進捗があった。

 新型のコロナウィルスが発見されたのである。これは日本にいる猫の半数以上が持っていると言われるネココロナウィルスの変種であると考えられた。


 猫伝染性腹膜炎(FIP)という病気がある。

 古くから知られている猫の病気で、伝染性が強く致死率が高いため、愛猫家にとっては名前を聞いただけで震え上がる嫌な名前だ。

 この病気を引き起こすのが、ネココロナウィルスである。しかし、過去にネココロナウィルスが人間に感染した例は確認されていない。


 猫伝染性腹膜炎(FIP)という病気は、謎に満ちている。

 FIPウィルスは強毒性で、発熱や下痢から腹膜炎を起こして死に至る恐ろしい病である。しかし、このウィルスは自体は感染力がないとも言われている。


 変異する前のネココロナウィルスは大した症状も引き起こさないのだが、日本に限らず世界中の猫の腸に当たり前に存在して、しかもこれは非常に感染力が強いのである。

 つまり、FIPウィルスに感染するのではなく、ネココロナウィルスが猫の腸内で突然変異を起こしてFIPを発症する、と考えられているのだ。


 ネココロナウィルスが突然変異してFIPを発症するメカニズムはまだ解明されていないし、有効なワクチンもない。その発症には猫のストレスやそれに伴う免疫力の低下が関わっているらしいと考えられている。


「にゃ病」の場合も同様に、人間に感染したネココロナウィルスがストレスなどの原因で突然変異し、何らかの症状を発現させているのではないかと推測された。


 その後厚生労働省が極秘に研究したデータによると、変異して人に感染するようになったネココロナウィルスである、「にゃ病ウィルス」の感染者は、何と日本の人口の六割に達するという見込みだった。


 感染ルートも発症に至る経緯も何も解明されないままに、この数字だけが公表されてしまうと、日本中がパニックに陥る心配がある。それが、即座にこのデータを公表できなかった事情だ。


 しかしこれだけの数のキャリアが存在するにも関わらず、発症者は極めて少数だった。「にゃ病」の発症に関わるメカニズムは結局いまだに解明されていない。

 しかしながら、その治療方法は初期段階より確立されて着実に成果を上げている。すなわち、集団で酒を飲んでにゃぁにゃぁ言っているだけで次第に症状は治まる。しかも再発率はほぼゼロ。完治である。後遺症もほぼない。


 これで「にゃ病」問題は実際的には解決、のはずであった。


 しかし、「にゃ病」の発症者がどの程度存在するのか、という問題が残る。

 施設へ入居して完治する者は増え続けたが、そこへ収容されなかった発症者はどうなるのか。また、ウィルスの感染経路についても疑問が残る。


 その後の研究によれば、日本以外での症例はまだ認められていない。ウィルスのキャリア数も含めて、日本固有の感染症、ということになりそうであった。


  

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