ゑびす 2
目を覚ますと、暗い部屋で横になっていた。窓から白い月明かりが差し込んでいる。記憶を辿り、そこがゑびすの厨房の隣にある何もない六畳間だと推察した。
部屋の隅に敷いた布団に、毛布を被って眠っていたのだ。情けないことに、あのまま酔いつぶれてしまったらしい。
健一の視界を白いものが横切り、額に冷たい感触を感じる。
それは、熱を持った体に心地よい温度で、少年の頃に風邪で寝込んだ時に看病してくれた母の手を思い出された。冷たい快感に目を閉じて、健一は再び眠りに落ちる。
浅い眠りから次に目を覚ますと、まだ額にはひんやりとした優しい感触が残っている。
多少は酔いも醒め、その不自然さにやっと思いが巡る。首を少しだけ曲げて視線を上げると、枕元に若い女性が座り、自分の額に手を当てているのだった。
健一を見下ろす人形のような白い顔には、見覚えがなかった。
目と目が合うと、はにかむような笑顔を浮かべるが、それも一瞬のこと。そのまま何も言わず健一の額に手を当てたまま、じっと見下ろしている。
健一は毛布から右手を出して、額の上にある彼女の手に触れた。磁器のように滑らかな肌は冷たく、華奢な掌は強く掴めば握り潰してしまいそうだった。
「体に障るから、お酒はほどほどにしてくださいね」
女は、古女房のようなセリフを吐いた。深い温もりを感じる声の調子が耳の奥へ浸透し、どこかに眠っていた遠い記憶を呼び覚ますかのようだった。
健一は半覚醒のまま彼女とふたりで過ごした長い人生を一瞬で振り返ったような気がして、女の手を握る力を強めた。
それは過去の記憶なのか、これから歩む人生の一コマなのか、判然としない不思議なイメージの喚起だった。
「そんなところに座っていたら、寒かっただろう?」
寝起きでしゃがれた声が喉から出た。
女性は黙って頷く。
「こっちへ入るかい?」そう言って、健一は体を横にして毛布を捲る。それにしても、自分は何を言っているのだ。一瞬心の中で言葉を反芻するが、魅入られたように体は自然に動く。
「いいんですか?」
健一の心の中に浮かぶ「いや冗談だから」という言葉が表に出る間もなく、彼女は健一の目の前に滑り込む。そうなるともう、いいも悪いもない。毛布にくるまり体が密着すると、冷え切った彼女の体は微かに震えていた。
自分一人がぬくぬくと眠っていたことに負い目を感じて、健一は思わず彼女の冷たい体を抱き寄せた。
それ以上何事もなく、無為に時が過ぎた。健一がいい加減困り果てた頃を見定めたように、彼女が健一の胸に埋めていた顔を上げた。健一の目を間近に見ながら口を開く。
「私のこと、覚えていませんか?」
近くでじっくり見ても、こんな美人に知り合いはいない。
「申し訳ないが、記憶にない」
彼女はふっとため息をついて、目を閉じる。
「二年前の朝、駅のホームで電車を待っているときに、救けてもらったことがあるんです」
「二年前の朝……」
彼女の顔を見て、声を聴いても何も思い出せない。目を細めて、朝の駅というキーワードを元に記憶を辿る。
「もしかして、髭親父に絡まれてた学生さんか?」
彼女は目を開けて、笑顔を見せた。
「はい、その通りです」
懐かしくも汗臭い記憶を、健一はどうにか手繰り寄せた。同時に、自分が彼女の顔を全く覚えていない理由も。
その暑い朝、早出して片付けねばならない仕事を抱えて、無理をして早く家を出た。
せめて座って居眠りでもできればと、ホームで電車を一本見送り次の始発を待つ列の先頭に並んだ。疲労と寝不足で立っているだけで眩暈がする。
そろそろ折り返しの電車が入線しそうなころ、列の後方で何やら言い争う声がした。特に高圧的な男の声が耳に触り、気分の悪さに拍車をかける。列に割り込んだのなんだのと、不毛な会話が疲れた脳に突き刺さる。健一は嫌々振り向き、声の主を探した。
偉そうな声の持ち主は、立派な髭を蓄えた老紳士だった。
若い女性に向かって一方的に怒鳴る男の頭に拳を叩きこみたい思いをぐっと堪えて、健一は男の襟首を掴んで引き寄せた。
「ほら、一番前と代わってやるから、もう黙ってろ」
そう言って有無を言わさず男を引き離し、健一はその女性の後ろに並び直した。
女性から何か話しかけられたが、気分が悪くてそれどころではない。彼女の雰囲気から、多分大学生なのだろう、と思った程度だった。
その後、すぐにホームへ入ってきた電車に乗りこむと、難なく座席を確保できた。
人の諍いなどというものは、概してこのように無意味なものだ。健一は固いシートへ腰を下ろした瞬間に周囲の雑事は全て忘れて、すぐに死んだように眠りに落ちた。
そんな事情で、健一はその女子大生の顔を見た記憶が全くない。こんな美人だとわかっていれば、もっと恩を売っておけばよかった、と今更ながらに思う。
「あの時、あなたは私の隣に座ったんですよ。でもお礼を言おうにも、見向きもせずに眠ってしまったんです。だから、今更ですが、あの時はありがとうございました」
「はあ、どういたしまして」
そんな返事しかできない。
「あの後何度かあなたのことを駅で見かけたけど、なかなか声をかける勇気がなくて……」
「いや、いいんだ」
「でも、本当は今年、一度話をしているんですよ」
「まさか」
「ほら、やっぱり覚えていない」
彼女は諦めたように小さく笑う。
「今年の春、ある会社の新卒者説明会で、見覚えのある人がいました。その人は会場の案内をしていて、その後で職場の先輩として、自分の部署の説明などをしていました。最後に質問を、と言われた時に、最初に手を挙げて立ち上がったのが、私です」
「うちの会社の説明会に来てたのか」
そう言って、健一は苦笑いを浮かべる。実はその日は二日酔いで、慣れない仕事に緊張感も加わり何を話したのかとんと覚えていない。
「それだけじゃありませんよ。私、内定も貰ってるんです」
「ということは、来年の新入社員か」
彼女は答えず、にやにやと笑っているだけだ。
「竹内香澄と言います。よろしくお願いします。それでも思い出せない?」
「いや、ごめんなさい」
「いえ、謝ることはないですよ」
「そうだよね」
「はい、でも少しくらいは……」
二人で顔を見合わせて、笑った。
「来年からは社会人ですから、しっかりした生活をしなければと思い直して、今日は炊飯器を買いに行っていたのです」
香澄は唐突に、話を変える。
「大学に入って一人暮らしを始めて以来、外食やコンビニ弁当ばかりの暮らしでした。でも、そんな食生活とはもうさようなら。明日からはちゃんとご飯を炊いて、自分でおかずも作るのです。そして立派な社会人になるのですよ」
「そうか、がんばれ」
「だから今日は最後の外食と思って、友達と力いっぱい飲んで食べてきました。それで、最終電車になってしまったんです」
「いや、俺に言い訳しても仕方ないから」
「いいんです、聞いてください」
「仕方ないな。よし、聞こう」
「いえ、これで終わりです」
冷え切っていた香澄の体はすっかり温まっている。十センチ程しか離れていない瞳が熱をもって輝いていた。
その熱は薄い服を通して健一の体へ伝わり、十センチの距離がやがてゼロになる。
そこから先は、夢と現実の交錯する熱狂の世界へと突き進むだけであった。
ただ、非常な勢いで血液の巡りが良くなるとアルコールの回りも加速して、どこかのある時点から先の記憶は、またもや失われている。
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