ゑびす 3


 次に健一が目覚めた時には、部屋の中へ薄明るい朝の光が入っていた。

 一人で毛布にくるまっていて、肌寒い。


 しかしそれよりも、尿意と酷い喉の渇きをどうにかしなければいけない。


 服を着て、裏口のサンダルを借りて外へ出た。


 そこは数軒の木造家屋に囲まれた細長い中庭になっている。奥へ進むと古い井戸があり、その隣に共同便所があった。


 店のトイレが使用中の時は、たまにここを使わせてもらっている。いつもは暗闇の中で見ているこの中庭が、こんなに広いとは思わなかった。


 用を足して、井戸の脇の洗面台で顔を洗い、冷たい水を飲んだ。


 井戸の電動ポンプが蠅の羽音のように唸っている以外には、何の物音もない。実に静かな朝だった。


 健一はまだ明けきらない空を見上げる。低い軒に切り取られた空は雲もなく全体に濃い青みを帯びているが、まだ太陽は見えない。日の出前の心躍るような色彩だ。


 洗面台の前から左手へ続く暗い路地の先が、ぼんやりと薄い光を放っている。健一は誘われるように、そちらへ向かって歩いた。


 古い木造家屋の間の暗い石畳を抜けると、目の前に大きな景色が開けた。


 左右に広く見渡す緩やかな下り斜面は一面の畑で、その先は深い森に呑み込まれている。


 畑の半分は収穫が終わった土色で、木々は紅葉に黄色く染まり始めていた。その森の奥から微かに、沢音が聞こえる。


 左側の農道を、一団の男女が歩いていた。よく見ると、昨夜遅くにゑびすで一緒に飲んでいた連中だ。野球談議に花が咲いた会社員の姿も見える。


 その中に、香澄がいた。


 健一が見ていることに気付いた香澄は、両手で抱えていた大きな炊飯器を地面に下ろし、こちらへ振り返って両手を振った。


 健一もそれに応え、両手を振る。


 そのまま何度も飛び上がって両手を大きく振っていた香澄だが、やがて健一に正対し深く頭を下げると集団に追いつき、業務用にしてもあまりにも巨大な炊飯器を抱えて、道をゆっくりと下り始めた。



 香澄がここにいる。ということは、昨夜の出来事は酔漢の夢ではなかった。健一は何度も瞬きを繰り返し、目前の出来事が幻ではないことを確認した。


 周囲に目を向けると、他にも横の民家の間から一人二人と斜面の道を歩く人の姿が見受けられる。


 一様に彼らは大きな荷物を両手に抱え、あるいは背負い、一歩一歩を踏みしめるように歩いていた。


 香澄の前を歩く若者は工事現場でよく見かける赤い三角コーンを何十本も重ねて持っている。


 スンドレ氏は何本ものテニスラケットをバックパックに入れているし、右手の路地から出てきた老人は、大きな竹刀の束を紐で斜めに背負っている。


 とても一人で運べるとは思えないような大荷物をそれぞれ抱えた総勢十人ほどの異様な集団が合流してひとつになり、ものも言わずにゆっくりと森へ向かい道を下って行くのだった。


 それはまるで音のないチンドン屋の行列のようで、滑稽で芝居がかっているものの、心の奥底を揺さぶられるような、切実で静謐な光景だった。


 健一は彼らを追うべきかと考えたが、そこから一歩も足を踏み出せない。


 金縛りにあったようにただ立ったまま、彼らの姿が小さくなるのを見送っていた。


 そしてついに、彼らの姿は色付き始めた森の中へ消えた。


 いつの間にか、ゑびすのお父さんとお母さんが健一の後ろに立っていた。


「皆さんお帰りになりましたか」

「そうですねぇ」


 お父さんのやさしい口調にお母さんが頷く。二人が健一に向かって、深々と頭を下げた。


「お疲れ様でした。昨夜はどうもありがとうございました」


 何の事やらわからず、健一は困惑する。いったい何から尋ねるべきかと思案しているうちに、お母さんが先に口を開いた。


「そうそう、今しがた、お宅のお母様が心配して電話をくださいましたよ。あなたも早くお帰りになった方がいいですね」


 混乱したまま、健一は何も質問できずにぼんやりとした頭で自転車に乗り、家へ帰った。


 家のドアを開けると、母親が奥から飛び出て来た。


「ああよかった。無事に帰ってきたのね」


 なんと大げさな物言いだろう。女子高生でもあるまいに。健一が玄関の時計を見ると、まだ朝七時前だ。


「こんな時間から、何の騒ぎだよ」


 健一は昨日からの疲れを引きずり、頭も体も重かった。そのまま居間へ入ると、父親がテレビの前に座って食い入るようにニュースを見ている。


 健一の姿を見つけて顔を上げた父親が、真面目な顔でテレビの画面に向かって顎をしゃくった。


「おまえ、この騒ぎを知らんのか」


 そう言われてテレビの画面を見ると、何かの特別ニュースが流れている。若い男性アナウンサーが、聞き慣れた地元駅の名前を連呼しているのだった。


 そしてその詳細を知るにつれて、健一の顔は青くなった。


 昨夜、この町の駅で満員の最終電車がホームへ入る直前に脱線事故を起こし、多くの死傷者が出た。


 いつものように遅くまで飲んでいたなら、健一も乗っていた可能性の高い金曜夜の最終電車だ。


 現在の時点で死者は十名。しかしまだ折り重なった車両に挟まれて救助を待つ人もいるようだ。事故から数時間経った現在も、必死の救助活動が続いている。


 病院へ運ばれた重傷者も多数いて、その中には意識の戻らぬ人や緊急手術を受けている人などが多数いて、死者の数は今の何倍にもなる恐れがあるという。


「夜中からずっと救急車のサイレンが鳴って、すごい騒ぎだったのに。おまえは知らずに酒を飲んでいたのか。心配して損した」


 父親はあきれたように言うが、実際事故のことを知ったのは今朝起きてからのことらしい。


 それから心配した母親が健一の携帯電話へ連絡を入れたが応答がなく、直接ゑびすへ電話をして無事を確認したということだ。


 テレビの画面では、繰り返し死亡が確認されている十人の名前がテロップで流れ、顔写真が紹介されている。


 その中にはスンドレ氏と思われる男性の特徴的な写真があり、大学四年生の竹内香澄という女性の名前も含まれている。


 昨夜ゑびすで見た何人かの顔が次々と映し出される。


 まるで映画の中の出来事のように、テレビは非現実的な臭気を放って遠ざかる。


 画面には高校の制服を着た香澄の写真が映され、健一は思わず目を背けた。


 つい先ほど、夜明けの薄明かりの中で森へ消えていったあの一団は、この人たちで間違いない。


 昨夜遅く、薄暗い酒場で一緒に酒を酌み交わしたのも、この中の数人だった。アナウンサーが繰り返し読み上げる犠牲者の名前を聞きながら、現実が遠ざかる。


 健一はテレビの前に立ち尽くしていた。


 気が付くと、ポケットの中で電話が震えている。取り出すと、職場の先輩からの着信だった。


 昨夜、健一は彼らと別れて先に帰ったのだが、もしやと思い心配して電話をくれたのだった。


 もし健一がゑびすに呼ばれず、いつもの週末のように一緒に飲み歩いていたのならば、この事故に巻き込まれていた可能性は高い。


 しかし、彼らも昨夜は九時前には解散して、それぞれ早めに帰宅したのだという。


 その他の友人からも、無事を確認するためのメッセージが何本か入っていた。健一はぼんやりした頭で自室へ行き、緩慢な動作で短いメッセージを返信した。


 健一は、ただ心が麻痺して沈んでいる。そのままベッドに横たわり長い間ぼんやりと動かずにいるうちに、いつの間にか眠ったようだ。



 目覚めた時には、既に陽が傾いていた。こんな時でも眠れる自分が不思議であった。


 夕刻になってもまだ、新聞やテレビを見る勇気がない。


 信じられない出来事の数々の中で、健一が一番不思議に思うのは、最後に見た香澄の姿である。


 健一の姿を見つけて両手を振り回して飛び跳ねていたあの姿は、何だったのだろう。別れ際の幸福そうな笑顔を、健一はどう受け止めれば良いのだろうか。


 金曜日の翌日は当然土曜日で、生ある者には当たり前のように時は流れる。特にするべきこともない休日が、無為に暮れていく。


 入浴して夕食を取った後、自室のベッドに腰を下ろしていると、炙り出しのように一つの思いが形を成して浮かんできた。


 両親によれば、恐れていたように事故の犠牲者は増えているらしい。

 終着駅の終電車に乗っていた客のほとんどが、この町の住民だった。


 突然の事故により人生を終えることは不幸としか言いようがない。


 本人にとっても、残される家族や知人にとっても、泣いても喚いてもやりきれるものではない。それは理不尽極まりない、到底容認できない不幸な現実である。


 だがしかし、それはこの事故自体が甚だしく不幸なのであって、事故にあったその人の人生全てが不幸であるとは言いきれない。


 香澄の最後の笑顔を何度も思い返すたびに、その思いは強くなる。それまで生きてきた彼女の人生を、最後の事故一つだけで不幸だったと片付けるのは間違っている。


 何故なら、その瞬間まで彼女は自分の人生を精一杯生きていたのだから。そこまでの人生は、きっと様々な輝きに満ちていたことだろう。


 そういう意味では、彼女はきっと幸福な人生を送ったのだ。


 今を生き延びている自分が言うのは何か違う気がするが、やはり彼らの人生を一括りに不幸だったと言うのは失礼極まりないように思う。


 そもそも、あの森へ消えた後、彼らはどうしているのだろう。


 今朝一緒にいたのならば、今この時だって、どこかにいるのだろう。彼女が抱えていた巨大な炊飯器で、今頃は大量のご飯を炊いて仲間と味わっているだろうか。


 それならばきっと、スンドレ氏の背負っていたラケットでテニスをプレイすることもあるだろうし、老人からは剣道の指南を受けるに違いない。


 今この場所とは違うどこかへ、彼らは旅立っただけなのだ。


 その時、初めて健一の頬に涙が伝った。


 香澄の笑顔が残したものは、確かに健一の中にある。


 もちろん、ゑびすのお父さんとお母さんの中にも。


 彼女はきっと、いい人生を生きていたのだろう。


 そして、最後に誰かへそのことを伝えられた、それが嬉しかったのだ。健一はそう思う。


 だから普通なら耐えきれないような無念の思いや泣き叫びたい孤独を全て飲み込んで、彼女は笑顔で歩いたのだ。


 ゑびすだけではない。近所の家から現れた他の何人かを考えれば、あの集落自体が、そういう憑物を落として行くための場所なのかもしれない。


 健一が前日に呼ばれたということは、誰かが何かに気付いていた。

 だが、呼ばれた健一は特別な何かを求められたのではない。


 ただ黙って見送る。それだけで、きっと穏やかに旅立てる。そして、そのために、あの場所がある。


 その夜、とりあえずそんな風に考えて、健一は納得しようとした。だが、心の中を吹き抜ける風は、耐えがたい喪失感を送り続けている。


 目を閉じると、明るい表情で森の中へ消えて行った人々の姿が自然と脳裏に浮かぶ。


 この残像と、どう付き合って暮らせばよいのだろうか。


 これから訪れる冬は、長くなりそうだった。




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