シリーズ 幻想酒場漂流記 短編集

アカホシマルオ

幻想酒場漂流記 第一夜 ゑびす

ゑびす 1


 疲れの溜まった体をやっと目覚めさせた金曜の朝、健一が仕事に出かける直前になって母親が妙なことを言い始めた。


「そういえば昨日の晩、あんたに電話があったんだわ」


「どこから?」

 ネクタイを締める手を忙しく動かしながら、健一は首を少し傾げた。

 携帯ではなく自宅の電話にかかって来るのは珍しい。


「ほら、あんたがよく行くお山の上にある飲み屋さん、ゑびすって言ったっけ」

 父の朝食を支度しながら、母は大仰に左手を上げて店のある方角を指差す。


「まさか。何かの間違いだろ」


 ゑびすというのは、健一の行きつけの酒場だ。駅から離れた集落の中にあるため地元の常連客が中心の小さな店で、ここ数年、週に一度か二度は足を運んでいる。


 しかしそこでは正式に名乗ったこともなく、ましてや自宅の電話番号など知るはずもない。


「あら、でもあんたの名前を呼んでいたわよ。上品で落ち着いた声の女性だったわ。金曜の晩に特別な催しで朝まで店を開けるから、あんたに来てほしいのだって。なるべく早い時間から来てくれってさ。ほら、ここへ電話をして、自分で聞いてみて」


 そう言って母親が差し出したメモ用紙には、一つの電話番号が記されていた。健一はその紙片をポケットにねじ込み、慌ただしく家を出た。


 それから昼休みになるまで、その件についてはすっかり忘れていた。


 昼食後にオフィスに戻ってから思い出し、健一は、改めてネットで番号を調べてみると、確かにそれはゑびすの電話番号である。謎だった。


 ゑびすは年寄夫婦が二人で営む小さな店なので、普段は夜九時には店を閉めてしまう。


 健一の場合、週末は会社の仲間と飲み歩くことが多く、帰りは大抵最終電車になる。したがって、金曜にゑびすへ寄ることは滅多にない。


 その日、週末金曜日の終業後、周囲からはダメ人間扱いされている独身男性グループの執拗な誘いを振り切り、健一は夕方まだ早い時間に帰りの電車に乗った。



 数年前から暮らしているこの町は鉄道の支線の終着駅で、都会のような賑わいはないが、駅前にはそれなりに活気のある商店街が広がっている。


 そこから自転車で数分離れた場所に健一の家はあり、更にバス通りをその先へ数分走り続けると、居酒屋ゑびすがある。


 駅からはずっとだらだらとした上り坂が続いて意外と疲れるが、その分、酔って家まで帰る道のりは下り坂で楽だった。


 秋の日暮れは早い。自転車で走り始めると、刃のように鋭い月が浮かんでいる。

 時折街道を走り抜ける車のライトが、透明度を増した闇を切り裂いては消えてゆく。


 ハンドルを握る手に当たる乾いた風は指を突き刺し、今夜は熱燗かな、と健一は早くも思いを馳せていた。


 店の白い看板が、左手の暗闇に突然浮かぶ。いつになく、遠くからくっきりと見えているのが不気味だ。何やら知らない場所へ来たような不安を感じて、身震いをした。


 看板の手前にはバス停があり、その辺りから急に建物の密集した地域になる。道路の右側は急な山の斜面で、崖の上には石垣だけが残る城跡の公園がある。


 今では公園の入口にある古刹だけが昔日の姿を残していて、この辺りは古くから栄えた城下町の一部なのだと店の常連客から聞いた。


 バス停の先に輝く看板を目印に左へ折れて、三軒目の古い木造二階建てが、ゑびすだ。



 健一がいつにない緊張感で入口の引き戸を開けると、拍子抜けするほどいつもと同じ見慣れた客がそれぞれの指定席に腰を掛けている。


「やあ、ケンちゃん。珍しいね、週末に来るなんて」

 鼻の赤い四角い顔の中年男がさっそく声をかけ、隣の椅子をすすめた。


 常連の仲間からは「下駄」と呼ばれる気のいい男で、筋肉質の肉体が持つ威圧感を全て帳消しにする細くて優しい目を持っていた。


 店はコの字型のカウンター席のみで、全部きっちり埋まれば十五人ほど座れるだろうか。今夜は七割くらいの入りだが、ほぼ満席といった雰囲気の盛況ぶりだ。


 狭いカウンターの中ではお父さんとお母さんが忙しく動き回っている。お母さんが出してくれたおしぼりと引き換えに、健一は焼酎のお湯割りを頼んだ。


 熱いおしぼりで手を拭きながら、とりあえず隣に座る赤鼻の「下駄」に気になっていることを聞いてみた。


「今日って、ここで何かあるって聞いてる?」


「ああ? なんだそれ。聞いてないぞ」

 下駄は皿に残った好物のマグロぶつの切れ端を名残惜しそうに箸で弄びながら、隣の女性に声をかける。


「春ちゃん、今日ゑびすでなんかあるの?」


 春ちゃんと呼ばれた五十年配の女は豪快に笑って太い腕で下駄の背中をバンバン叩き、「いつもと変わんないよ。飲んで酔っ払うだけさ」と返した。


「なんだ、そうか」そう言って下駄も負けじと春ちゃんの背中を叩いて、「痛いよこのバカ」と怒られている。



 健一がこの店へ通い始めた数年前、大学を出て就職したばかりで、ちょうど両親と妹と四人でこの町へ引っ越してすぐのころでもあった。


 知り合いもいないこの町で、たまたま訪れたこの店の居心地がよく通い続けているうちに、皆からケンちゃんと呼ばれるようになった。


 いつもなら閉店する九時近くになり下駄がよろめきながら退場した後にも、客足は途切れない。


 他の客も知っているのか、帰ろうともせずにのんびりと飲んでいる。健一は少し安心し、熱燗に切り替えてちびちび飲みながら近くに座る男たちとバカ話をしていた。


 夜も更ければすっかり酔いは回り、それでも酒場は依然として静かな熱気に包まれていた。


 店の扉が開いて一段と冷たさを増した夜風とともに一人の男が入ってくると、健一は一瞬正気に返った。



 彼は最近店でよく見かける中年男で、その夜は寒いのに赤いタータンチェックの半袖シャツ姿だったので目を疑った。


 面長で顔の大きな男性で、髪は縮れた長髪。大巨人と呼ばれた往年の人気プロレスラーを思わせる風貌で、一度見たら忘れられない。


 ただ、大きいのは顔だけで、体全体は普通の日本人サイズであった。健一は密かにスモールアンドレ、略称スンドレ氏、と勝手に命名していた。


 健一が見慣れた他の常連客は皆帰ったようで、スンドレ氏以外は見知らぬ人間ばかりになっていた。それでも店内はいつものように和んで、楽しげに酒を酌み交わしている。


 健一は隣の席にいた三十過ぎの会社員に分けてもらった子持ちシシャモをつまみながら、メジャーリーグで活躍する日本人選手について熱く語り合っていた。


 いよいよ泥酔した健一の記憶はその辺りが限界で、楽しげなクライマックスの雰囲気の中、突然幕を下ろしたようにぷっつりと途切れている。

  

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