La Pioggia nera 4
彼らの長い話が終わると、私は深く息を吐いて目を開けた。ケイタがマスターから鍵を預かり、四人で階段を下った。
確かに、降りてすぐに木の扉があり、そこにはトイレの表示がある。その隣にもう一つ同じ扉があり、それが例の扉だった。
こちらにはドアノブの鍵とは別に、もう一つの金物が取り付けられて、大きな南京錠がかけられている。
その二つの鍵を解錠して重い扉を開けると、扉に面してぎっしりと石積みの壁が現れた。壁面と同じグレーの花崗岩の壁である。
リーダーは、その壁を手で触りながら言った。
以前のオーナーの話でも、この扉を開けると、ここはこの通り、石壁で塞がれているだけの場所だった。
だからあの日、この奥に倉庫があったという俺たちの話など初めから信じようともしなかった。
ましてやその先が昭和二十年のヒロシマに繋がっているなどと言っても笑うだけだった。
今使っている倉庫は、廊下の突き当り、一番奥にある両開きの扉の中だ。
その倉庫の床は俺たちが入った手前の倉庫と同じ、磨いていない荒れた石の床で、中もちょうど隣の開かずの間のあたりで部屋は壁になって切れている。
昔、この店の改装工事をしたときに地下の廊下の床板を剥がした時には、その下には倉庫の床と同じ石が敷き詰められていたそうだ。
その地下室の造りは、この建物と、俺たちが行った広島の廃墟と、そっくり同じだ。
当時のこの店の名前にしても、壁で塞がれたおかしな扉が厳重に施錠されていたことも、きっと何かの理由がある筈なのだが、それ以上はわからないと聞いた。
私たちは再び階段を上り、元の席に戻った。そしてマスターが作ってくれた濃い水割りで乾杯をやり直した。
マスターがフランスパンを焼いてガーリックトーストを作るのをカウンター越しに見て、私は唐突に母が毎朝焼いてくれたトーストの香りを思い出した。
私の父と母については、彼らにもう少し詳しく説明する必要があった。
五年前に妻を病気で失った、と父は彼らに語ったらしい。
それは父なりの見栄だったのか、それとも単に詳しい話をする気力がなかったのか、事実とは異なる。
実際、母は今でもどこかで生きているだろう。それも、おそらく父と暮らしていた時よりもっと元気に生活しているのではないかと思う。
私が就職して家を出るより前に、一つ年下の妹は既に短大を出て働いていた。
当時は妹も仕事が忙しく、家にいる時間は短かった。だから私が家を出た後の二年間、父と母との二人暮らしに近いような状態だった。
五年前のある日、母は自分の判を押した離婚届をいきなり父へ突き出した。
無口な父とは対照的に母は社交的で朗らかな性格で、それが二人の相性の良さなのだと漠然と子供のころから思っていた。
それまで細やかな気配りと溢れる愛情で家庭を支えてきた母親は、父に非難がましいことを何も言わずに、黙って家を出て行った。おそらくは、父との退屈な生活にそれ以上耐えられなかったのだろう。
母の心情は、容易に想像できる。
しかし頭の中では理解できても、私たち二人の子供には全く共感のできない行為であった。
ただ、それが考え抜いた挙句に母の選んだ人生であり、五十歳を目前にした女性が辿り着いた一つの結論であれば、受け入れる他なかった。
当時の私は、母の語ろうとしなかった生々しい理由をあれこれ憶測するのも嫌で、単に思考停止していただけなのかもしれない。
しかし父にとっては青天の霹靂の大事件であった。
以後父はひどく気落ちして体調を壊して倒れ、一時入院していた。
精密検査をすると、内臓に腫瘍が見つかった。その時点で五年生存率二十%以下という、進行した癌だった。ま
さに踏んだり蹴ったりの、人生最悪の時である。治療には幾つかの選択肢があり、父はひとりで相当悩んでいた。
その後父の体調は回復して退院後は仕事に復帰したものの、精神的な衝撃からは抜け出せなかった。
真面目な父には珍しく、かなり自暴自棄な気持になっていたのだと思う。状況を考えれば、極めて当然だ。
しかし、ある日を境に突然決意して、根治のための徹底的な治療を選択した。それは一歩間違うと寿命を縮めかねないリスクのある選択だった。
「父は皆さんとここで出会った時には、既にステージⅢの癌に侵されていたんです。」
私はそう言った。黒い雨に打たれたのだとしても、それはちょっとしたおまけに過ぎない。父もそれを知っていて、あえて無理をしたのかもしれない。
父は彼らと出会うことにより、逆に生きる力を得た。
そしてその後選択した治療は一時期功を奏し、仕事も続けることができた。
かなりの時間を苦しむことなく、過ごすことができたのだ。
入院していた時に父が聞いていたオーディオ機器を確認したところ、彼らの音楽が大量に入っていることが分かった。
入院中も、父はその音楽に勇気づけられていたに違いない。それについては、私の方からお礼を言わなければならない。
息子である自分が言うのもおかしい話だが、きっと父は彼らの音楽が世間に認められ、売れていくのを自分の子供たちのように喜び、誇りに思っていたのに違いない。
私はそんな話をして、その日は彼らと朝まで飲んだ。
それから時々、あの店で彼らと会うようになった。
同じ年代の私たちは兄弟のように打ち解け、気楽に話せるようになっていた。
私にとっては、年の近い三人の兄ができたような感じである。
時には飲んだ勢いで私の下手なギターに合わせて彼らが歌ってくれたりする。
休日には来日した有名アーティストのライブにこっそりと出かけたり、キャンプに行って私の趣味であるボルダリングやカヌーなどのアウトドアスポーツを一緒に楽しんだりもした。
そんなことをしているうちに私は彼らの主催するチャリティイベントなどを手伝うようになり、私もまた彼らから様々なことを教わっている。
そんな私に、シンヤが一度だけこんな話をした。
ライブやイベントなどの活動を通じて色々な人と会うが、大切なのは自分の仕事を一番に考えることだ。
世の中の出来事を追いかければ理不尽なことばかりで、助けたくても助けられない大勢の人々の姿が見えてくる。
自分の無力さを思い知り、打ちのめされる。
中にはそんな思いが高じて政治活動に身を投じたり、新興宗教へ入信する人もいる。
逆に社会に背を向けて、人里離れた山奥で自給自足の暮らしを始めた人も何人か知っている。
深い悩みが煮詰まると思考がどんどん単純化されて、それが加速すると、突然極端な行動に走る場合がある。
それが悪いと言うわけではないが、そうやって自分の身を削ってまでして何かに打ち込んだり、逆に全てを捨てて逃避したりすれば、必ず周囲の大切な人を巻き込み、新たな不幸が生まれる。
そもそも自分の力で何とかできると考えること自体が、傲慢な考えなのだ。
だからそんな時は一度立ち止まり、自分の周りを見回してみろ。
自分が一人で生きているのではないことを確認して、地に足を付けて進め。
俺たちはそれを、孝太郎さんから教わったのだ。
孝太郎さんはあの日、広島で被爆した大勢の人を見た。それも、俺たちのせいで二度も。
おかげで俺たちはそんなことを何も知らず、無事に帰ってきた。
だからこそ孝太郎さんは最後まで必死で働き、病と闘ったんだと思うし、それを俺たちに伝えたかったんだろう。
私の知らなかった父の言葉を、シンヤは兄として私に伝えてくれた。
こんなヤクザな暮らしをしている俺たちが言うのもなんだがな、と照れ笑いを浮かべながら。
彼らは一度、広島でのライブの後に、市内北部の丘陵地帯へ行ったことがあるらしい。
それらしき場所を地図で幾つか当りを付けて車で走り回ったが、残念ながらあの場所は特定できなかった。実際彼らが外の景色を見たのはほんの数分だけだったので、これは仕方がない。
マスターにも店の古い記録を探してもらったが、東京と広島、東西二つの建物の由来も何もわからなかった。
私も父の遺品を色々見てみたのだが、父が広島へ行った気配はなく、その他何か調べていたような記録も残っていなかった。
しかし色々探しているうちに、彼らの言葉を裏付けるような、とんでもない物を見つけた。
父の残した携帯電話の中に一枚だけ、決定的な証拠が残っていたのだ。それは夏空に浮かぶ、黒いきのこ雲の写真だった。
私は世界に唯一存在する原爆雲のデジタル写真かもしれない一枚を、店で彼ら三人に見せて、その場で転送して共有した。
それは、確かにあの日、四人が見た光景と同じだった。
その写真は後日、彼らのバンドの次のアルバムジャケットを飾ることになった。
彼らの代表作となったあのアルバムの有名なジャケット写真は、CGなどではなく1945年8月6日に実際に広島で撮影された、本物の原爆雲のデジタル写真なのである。
了
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